アフマド・イブン・イブリヒム・アル＝ガジー

アフリカの角地域に位置したイスラーム国家、アダル・スルタン国のイマームであり、卓越した軍事指導者として知られるアフマド・イブン・イブリヒム・アル＝ガジー（アラビア語: أحمد بن إبراهيم ال غازي）。1507年頃に生まれ、1543年 2月21日にその生涯を終えました。彼は特に、隣接するキリスト教国エチオピア帝国への大規模な侵攻を主導し、一時期その広大な高原地帯をイスラームの勢力圏に収めたことで歴史に名を刻んでいます。

彼の名にある「ガジー」はアラビア語で「戦う者」を意味し、その全名は「異教徒と戦う者、イブリヒムの息子アフマド」という決意を示すものでした。また、彼は「左利き」を意味する渾名で呼ばれ、ソマリ語では「グレイ（Gurey）」、エチオピアで用いられるアムハラ語では「グラン（ግራኝ Graññ）」として広く知られています。

出自を巡る諸説

アフマドの正確な民族的出自については諸説が存在します。多くの学者は彼をソマリ族と見なしていますが、エチオピア側の歴史書にはアラブ人と記録されています。彼に従った兵士たちの多数はソマリ族でしたが、彼らは人種の違いよりも、キリスト教国エチオピアと対峙するムスリム（イスラーム教徒）としての信仰に基づく結びつきを重視して戦ったと考えられています。

生涯の軌跡

アダルの港町で生まれたアフマドは、後にゼイラの有力者マファズの娘、バティ・デル・ワムバラと結婚します。妻バティは夫のアフマドと共に戦場にも赴き、その活動を支えました。アフマドが台頭する以前、義父マファズは1517年にエチオピア軍との戦いで命を落としており、アダル・スルタン国自体が政治的な混乱と不安定な状況にありました。

アフマドはこのような状況下でアダルの軍を再組織し、国を立て直す力を示します。彼は首都をアダルから戦略的に優位なハラールに移し、体制を固めました。1528年にはエチオピアの将軍デガルハンの攻撃を見事に退け、その翌年、1529年には満を持してエチオピア領内への侵攻を開始しました。同年3月に行われたシムブラ・クレの戦いでは、エチオピア皇帝ダウィト2世自身が率いる主力軍を破り、その軍事的才能を天下に知らしめました。

エチオピア高原での快進撃

アフマドの進軍は続きます。1531年にはエチオピア北部へと深く侵攻し、ハイク湖の修道院や歴史的なラリベラの岩窟教会群などで略奪行為を行いました。同年10月28日のアムバ・セルの戦いでもエチオピア軍に再び勝利を収め、さらにアクスム近郊のティグレイ地方でもエチオピア軍を撃破しました。特に、アクスムに到達した際には、代々のエチオピア皇帝の戴冠式が執り行われてきた聖地、シオンのマリア教会を破壊したことは、後世に大きな影響を残す出来事でした。

ポルトガルの介入と激突

相次ぐ敗北に直面したエチオピア帝国は、ヨーロッパの強国ポルトガルに救援を求めました。ポルトガルからの援軍は、皇帝がダウィト2世からガローデオスに代替わりした後の1541年 2月10日、紅海沿岸のマッサワに到着しました。クリストヴァン・ダ・ガマに率いられたこのポルトガル軍は、少数のマスケット銃兵と事務員で構成されていましたが、当時のエチオピアにはない先進的な火器を有していました。

両軍は1542年 4月1日、アクスム近郊のジャルテ（現在のアナサ付近）で激突しました。数日に及ぶ睨み合いや交渉の後、ポルトガル軍はマスケット銃と大砲による火力に頼んだ歩兵方陣を組んで前進します。この戦闘でアフマドは偶然の銃撃により足を負傷し、退却を余儀なくされ、ムスリム軍は一時敗走しましたが、遠方の川を渡り体勢を立て直すことに成功しました。

その後、アフマド軍に援軍が加わり勢力を回復させます。4月16日、再び両軍は交戦し、2週間近くに及ぶ戦闘の結果、今度はムスリム軍がポルトガル軍に勝利を収めました。

ポルトガル軍の残存部隊は、エリトリア地方の支配者バール・ニーガス・イシャクの支援を受けて南下し、再びアフマド軍と対峙しますが、雨季に入ったためしばらく睨み合いが続きました。この間、アフマドは火器の重要性を認識し、オスマン帝国に支援を要請。オスマン帝国からは2000名のマスケット銃兵や大砲を含む大規模な援軍が派遣されました。一方、ポルトガル軍のマスケット銃兵は戦闘などで数を減らし、300名ほどになっていました。雨季明け、アフマド軍はポルトガルの宿営地を急襲し、多数を殺害。司令官クリストヴァン・ダ・ガマを含む140名を捕虜としました。ダ・ガマはイスラームへの改宗を拒んだため処刑されました。

終焉とその影響

クリストヴァン・ダ・ガマを失ったポルトガル軍の生き残りは、エチオピア本軍と合流し、さらにポルトガルからの新たな援軍も加えて体制を立て直します。1543年 2月21日、連合軍約9000名とアフマド軍約1万5千名は、ワイナ・ダガの地で雌雄を決する最終決戦に臨みました。激しい戦闘の末、アフマド軍は敗れ、この戦いの最中にアフマド自身も戦死しました。指導者を失ったムスリム軍はこれを機に崩壊し、アフマドによるエチオピア高原の一時的な支配は終焉を迎えました。

アフマドの妻バティ・デル・ワムバラは、わずかに残った兵と共にハラールへと逃れ、体勢の再建を図るべく甥のヌル・イブン・ムジャヒドと再婚し軍の立て直しを試みましたが、すでに反撃に出るだけの力は残されていませんでした。

アフマドによる侵攻は、エチオピアの人々にとって破壊と苦難の記憶として長く語り継がれました。20世紀のエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世も、幼少期に「グラン」（アフマドの渾名）による町の破壊や教会の略奪の話を聞かされていたと回想録に記しています。

情報源

アフマド・イブン・イブリヒム・アル＝ガジーによる戦役に関する記録は、複数の視点から残されています。

イスラーム側: シハーブッディーン・アドマド・イブン・アブドゥルカディールによるアラビア語の年代記『エチオピア征服（Futuh al-habaša）』が主要な史料です。ただし、大部分は失われ、1537年のタナ湖での戦いに関する記述のみが現存します。完全版を見たという証言もありますが、今日まで発見には至っていません。フランス語訳や英語訳も存在します。
ポルトガル側: R.S.ホワイトウェイが1902年に著した『ポルトガルのエチオピア探検』などに、ポルトガル軍の視点からの記録がまとめられています。
* エチオピア側: エチオピアの国史、特にダウィト2世やガローデオスといった皇帝たちの章に、この時代の出来事が記録されています。

これらの異なる視点からの記録を照らし合わせることで、アフマド・イブン・イブリヒム・アル＝ガジーという歴史上の人物と、彼が引き起こした激動の時代を理解する手がかりが得られます。

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