アルビン・R・カーン

アルビン・ロバー・カーン

アルビン・ロバー・カーン（1892年 - 1971年1月24日没）は、アメリカ合衆国の生物学者であり、戦後日本のボクシング界において、日本人初の世界チャンピオンとなる白井義男の指導者兼マネージャーとして極めて重要な役割を果たした人物です。その功績から、しばしば「カーン博士」の通称で呼ばれました。

来歴と日本での活動

シカゴでユダヤ系の家庭に生まれたカーンは、イリノイ大学で生物学と栄養学の分野で教授としてのキャリアを積みました。その学術的な功績が評価され、第二次世界大戦終結後に連合国軍最高司令官総司令部（GHQ）の天然資源局に配属されて来日します。当時の日本では食糧不足が深刻であり、カーンは日本周辺の海域に生息する海洋生物を調査し、それらを栄養資源として分析・活用するための研究に従事しました。

白井義男との出会い

GHQでの調査活動の傍ら、偶然立ち寄ったボクシングジムで、カーンは一人の日本人ボクサーと出会います。それが後の世界王者、白井義男でした。当時の白井は年齢による衰えと持病の腰痛のため、引退を考えている状態でした。しかし、カーンは白井の類まれな資質、特に日本人離れしたリーチの長さや天性のパンチのタイミングに感銘を受け、彼のボクシングへの可能性を見出します。カーンは白井に対し、生活面から経済面に至るまで、あらゆるサポートを全面的に行うことを約束し、専属コーチ兼マネージャーとなることを提案しました。当初は迷いを見せていた白井でしたが、カーンの熱心な姿勢とボクシングに対する情熱に触れ、この申し出を受け入れることとなります。

科学的トレーニングの導入

カーン自身にプロボクサーとしての経験はありませんでしたが、体育講師としての経歴や、様々なスポーツ経験から得た知見に加え、生物学者としての専門知識を活かした独自の指導法を白井に施しました。彼はこの指導を「科学的トレーニング」と称し、従来の日本のボクシング界にはなかったアプローチを取り入れました。

トレーニングの柱

1. 栄養学に基づいた肉体強化: 食糧難の時代にあって、GHQ職員という立場を利用し、白井に肉類などの栄養価の高い食事を十分に与えました。また、筋力トレーニングを導入し、白井の体力と筋力を向上させました。これにより、白井は持病の腰痛を克服し、ボクサーとしての持久力と耐久力を劇的に高めることができました。
2. 「打たせないで打つ」技術: 当時の日本のボクシング界では、「打たれたら打ち返す」という、いわゆる「拳闘」のスタイルが主流でした。これに対し、カーンは白井に徹底した防御技術と、正確なパンチで相手を攻撃する「打たせないで打つ」スタイルを指導しました。このスタイルは、日本のファンや関係者からは当初否定的な見方もされましたが、当時の日本のトップ選手であった花田陽一郎やピストン堀口の実弟、堀口宏といった強敵を次々と破り、白井が日本フライ級、そして日本バンタム級王座を獲得するにつれて、その有効性が証明され、徐々に認知されるようになりました。白井の防御技術の高さは、試合後の写真を見ても顔面がほとんど腫れていないことからも明らかであり、これにより、当時のボクサーが陥りやすかったパンチドランカーといった職業病を避けることにも繋がりました。
3. メンタルトレーニング: 強敵である堀口宏戦を前にして、苦手意識から消極的になっていた白井に対し、カーンは両選手の詳細なデータ分析を行い、白井の長所や有利な点を客観的に示すことで精神的な不安を取り除きました。このような科学的なデータに基づいたメンタルケアは、その後のスポーツ界におけるトレーニングの基本メソッドの一つとなっていきます。

世界王座への道のり

白井を世界チャンピオンにするという目標を掲げたカーンは、1950年にホノルルのプロモーター、サム・イチノセに連絡を取り、当時の世界フライ級王者ダド・マリノとの対戦を打診しました。イチノセはカーンの熱意に応え、世界王座挑戦への道筋（世界ランカー撃破、挑戦資格の獲得）を丁寧にアドバイスしました。また、当時の日本には世界王座認定を行うコミッションが存在しないという国内環境の課題も指摘しましたが、カーンの「故郷に錦を飾らないか」という言葉は、日系二世として苦労を重ねたイチノセの心に響きました。

その結果、1951年5月21日には、世界王者ダド・マリノを日本に招致することに成功しました。初戦は接戦の末に判定負けを喫しましたが、同年12月4日にはマリノの地元ハワイ・ホノルルで再戦を行い、3度のダウンを奪った末に7ラウンドTKO勝ちを収め、白井が世界王者と肩を並べる実力があることを証明しました。

そして、1952年5月19日、ついに念願だったマリノとの世界タイトルマッチが日本で開催されます。15ラウンドに及ぶ激闘を制し、3-0の判定で白井義男が勝利。日本人として初めてのボクシング世界チャンピオンが誕生しました。これはカーンが長年抱き続けた念願の実現であり、日本のスポーツ史における伝説的な一戦として記憶されています。この試合は4万人もの観客を集め、当時の日本のボクシング興行における最高動員記録となりました。また、この試合を契機に、日本のボクシングは「拳闘」から「スポーツ」へと進化を遂げたという評価も少なくありません。

白井の引退後とカーンの晩年

カーンはGHQの解体後も日本に留まり、白井が引退するまでコーチとしてサポートを続けました。スポーツマンシップを重んじていたカーンは、現役時代から白井に品行方正を説き、引退後は自身のギャランティを全て白井に譲り、ボクシングビジネスから身を引くことを強く勧めました。彼は「ボクシングビジネスはモンキービジネス（汚い商売）だ。白井が関わるべきではない」と常々語っていたといいます。カーンとの間に揺るぎない信頼関係を築いていた白井は、この助言を受け入れ、実業界に転身して成功を収めました。

カーンは白井の家族の一員として深い絆を結びました。晩年は認知症を患いましたが、白井家による手厚い看護を受け、1971年に78歳でその生涯を閉じました。カーン博士は、白井義男を世界チャンピオンに育て上げただけでなく、日本のボクシング界に科学的なトレーニング方法やスポーツとしての理念を導入した先駆者として、その名を刻んでいます。

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