イギリスのチベット遠征

イギリスのチベット遠征（1903-1904）

1903年12月から1904年9月にかけて、イギリスの保護国シッキムと清朝の影響下にあるチベットとの間の領土問題を背景に、イギリス領インド軍がチベットへ侵攻した事件。

概要

この遠征は、インド総督ジョージ・カーゾンの主導により、東洋におけるロシアの領土拡張への牽制策として実行された。カーゾンは、ロシアの中央アジア進出が英領インドに及ぶことを警戒していた。1903年4月、ロシア政府はチベットに関心がないと表明したが、カーゾンは遠征を強行した。

フランシス・ヤングハズバンド率いる遠征隊は、チベット軍と交戦しながらギャンツェへ進軍し、1904年8月にラサに到達した。ダライ・ラマ13世はモンゴル、次いで中国へ亡命した。チベット軍は旧式の武器でイギリス軍に抵抗したが、近代的な兵器の前に敗北した。チベット・フロンティア委員会は、ダライ・ラマ不在のチベット政府とラサ条約を締結し、9月に撤退した。この条約によりチベットはイギリスの保護下に置かれたが、イギリスは清朝がチベットの統治に関与することを認識していた。

背景

遠征の背景には、清朝がチベットをロシアに譲渡するのではないかという噂があった。ロシアがチベットを支配すれば、英領インドとロシア領との間の緩衝地帯が失われると懸念された。ロシアの探検家ゴンボジャブ・ツィビコフがラサに滞在し、ダライ・ラマ13世の師である親露派のアグワン・ドルジェフを支援していた事実もあった。ダライ・ラマ13世は、ロシア皇帝ニコライ2世にドルジェフを派遣してロシアの保護を求めていた。カーゾンは、チベットがロシアの影響下に入ろうとしているという疑念を深めた。

1903年、カーゾンは清とチベットに貿易協定締結のための会談を提案したが、ダライ・ラマ13世は拒否した。カーゾンは清朝にチベットを従わせる力がないと判断し、ヤングハズバンド率いる代表団を派遣した。この派遣がチベット側の抵抗を受けることをイギリス政府が認識していたかは不明である。

ヤングハズバンドは、チベット人を紛争に引きずり込むために挑発行為を行った。イギリス軍は、ネパール人をイギリス側に連れ戻し、12月に「チベット人の敵意」を理由にチベットへ侵攻した。ヤングハズバンドはロシア軍がチベットに入ったという情報を得て、インド副王に電報を打ったが、カーゾンは「我々がラサに向かうのは、ドルジェフやロシア軍のためではなく、不法越境や侮辱行為への対応だ」と一蹴した。

イギリス軍は3000人、随行員は7000人だった。グルカ兵やパシュトゥーン人部隊が含まれていたことから、イギリス政府は軍事衝突を懸念していた。チベット側は、イギリス軍が攻撃しない限り、チベット側も攻撃しないと約束したが、会談は行われず、ヤングハズバンドは1150人の兵士を率いて国境から50マイル離れたドゥナを占領した。その後、チベット代表は現れず、ヤングハズバンドの遠征隊はラサに向けて進軍を再開した。

侵攻序盤

1903年12月11日、遠征隊はシッキムを出発した。司令官ジェームズ・ロナルド・レスリー・マクドナルド准将は、国境地帯で訓練と物資補給を行い、1904年3月初頭にチベットへ侵攻した。

チュミシェンコの虐殺

1904年3月31日、チュミシェンコで虐殺として知られる戦闘が起きた。イギリス軍は3000人の火縄銃を持ったチベット軍と遭遇した。ヤングハズバンドはイギリス軍を止めようとしたが、チベット軍の排除を優先する指示が出た。イギリス軍は偽装攻撃を行い、チベット軍の将軍が発砲したことで戦闘が開始された。

イギリス軍は、マキシム機関銃でチベット軍をなぎ倒した。チベット側の記録では、イギリス軍が罠を仕掛けたとされているが、証拠はない。この戦闘で、600～700人のチベット兵が戦死、168人が負傷した。イギリス軍の被害は12人の負傷だった。

ギャンツェへの進軍

イギリス軍はカングマの防衛線を通過し、4月9日、Red Idol Gorgeと呼ばれる峠に到達した。マクドナルドはグルカ部隊を派遣し、チベット軍を後退させた。イギリス軍は4月11日にギャンツェに到達。ギャンツェ住民は普段通りの生活を送り、西洋人たちはパンコル・チューデ（白居寺）を見聞した。

ヤングハズバンドは、チベット軍がカロ・ラに集結しているという情報を得た。ハーバート・ブランダー中佐はカロ・ラを攻撃し、チベット軍に勝利した。

包囲下での作戦

ギャンツェのイギリス軍拠点はチベット軍の襲撃を受けたが、撃退に成功した。しかし、ブランダーのカロ・ラ遠征隊が軽山砲とマキシム機関銃を持ち出したため、砦には残っていなかった。イギリス軍は増援隊を派遣し、チベット軍との戦闘を続けた。

5月18日から19日にかけて、イギリス軍はゾンと遠征軍の拠点の間にあった建物を奪取し、グルカ・ハウスと改名した。5月21日、ブランダー隊はナイニ村を攻撃したが、遠征拠点が攻撃を受けた報を受け撤退した。5月24日、DSO受賞者シーモア・シェパード大尉が到着し、イギリス軍の士気が上がった。

ギャンツェ前後での動き

イギリス軍はチベット軍を撃退し、拠点を確保した。イギリス・インド政府は増援を送り、マクドナルド准将が遠征の指揮を執ることになった。ヤングハズバンドはラサへの直行を熱望し、チベット軍がロシアの支援を受けていると主張したが、裏付けはなかった。総督代理は、チベットと交渉を再開するよう命じた。ヤングハズバンドは、最終通告をチベット陣営に送ったが、実際には交渉する気はなかった。

6月10日、ヤングハズバンドは新チュンビに到着した。6月12日、チベット軍が新チュンビの外まで進軍してきた。

イギリス軍はギャンツェ・ゾンを主要目標に定めた。6月26日、グルカ部隊と第40パターン連隊がナイニの要塞寺院を奪取した。6月28日、ツェチェン寺院と、ギャンツェ・ゾンの背後を守っていた要塞が制圧された。ツェチェン寺院は略奪を受け、貴重な品々が売り飛ばされた。

チベット軍は固定された防衛拠点での防衛に固執したが、戦略的な効果はなかった。

7月3日、イギリス遠征隊とチベット側代表の間で会見が行われたが、ヤングハズバンドは36時間後にギャンツェ・ゾンを攻撃すると伝えた。

ギャンツェ・ゾン急襲

マクドナルドはギャンツェ・ゾンの西側に陽動攻撃を仕掛け、南側から主攻をかけた。7月6日、イギリス軍は城壁を突破し、城内に突入した。チベット軍は秩序を保ったまま撤退した。この戦いで、ジョン・ダンカン・グラント中尉がヴィクトリア十字章を、プン軍曹が一等インド・メリット勲章を授与された。ギャンツェ・ゾン陥落後、寺院で略奪が行われた。

ラサ入城

7月12日、工兵隊がツェチェン寺院と砦を取り壊した。7月14日、イギリス軍はラサへ向けて東進を開始した。7月22日、イギリス軍はペテ・ゾン要塞で野営し、チャクザム橋を制圧した。7月25日、イギリス軍はヤルンツァンポ川を渡った。

8月3日、イギリス軍はラサに到達したが、ダライ・ラマ13世はすでに亡命していた。チベットの大臣評議会は圧力に屈し、1904年9月7日、ラサ条約に調印した。

1904年ラサ条約

ラサ条約の要点は以下の通り。

イギリス人がヤドン、ギャンツェ、ガルトクで貿易に従事することを認める。
チベットは750万ルピーの賠償金を支払う。完済までチュンビ谷をイギリスに割譲する。
シッキムとチベットの国境を承認する。
チベットが他の外国との外交関係を持つことを禁ずる（事実上のイギリスによる保護国化）。

チベットは莫大な賠償金の支払いを拒否したが、ヤングハズバンドはチュンビ谷を確保するために賠償金を吊り上げた。1904年の条約規定は、1906年のイギリス・清のチベットに関する協定で改定された。イギリスは清にチベットを併合したり内政に干渉しないことを求め、清は「他のあらゆる外国がチベットの国土や内政に干渉することを認めない」ことを約束した。

遠征の終結

イギリスの遠征隊は1904年9月に帰路についた。この遠征は、協定締結には成功したが、実りあるものではなかった。ロンドンでは、この戦争に対する非難が巻き起こり、「非武装の者たちを虐殺した」ことが議論の的になった。一方でエドワード7世は、ヤングハズバンドらを称えた。イギリス軍の戦死者は202人、その他の死者は411人だった。チベット側の死傷者は2000～3000人と推定される。

ヤングハズバンドはカシミールに赴任したが、意見は顧みられなかった。彼は、辺境地域の住民を「法を持たない劣等種」と蔑んでいた。

両陣営の構成

チベット軍は農民を徴募したもので、規律も練度も士気も低かった。将軍たちは臆病で、イギリス軍を恐れていた。イギリス軍は、北西辺境で経験を積んだ熟練兵で構成されていた。経験ある将校、近代兵器、兵士の士気が組み合わさり、イギリス軍は勝利を収めた。

その後

チベットはイギリスとの協定を守ることができず、1904年のラサ条約の内容は1906年のイギリス・清の間でのチベットに関する協定で再確認された。1910年前半、清はチベットの直接統治を目指して遠征隊を派遣したが、1911年の辛亥革命で清は打倒された。1913年にも中国はチベットへ遠征隊を送ったが、このときすでにチベットは独立を確保していた。1950年から1951年にかけて、中華人民共和国がチベットに侵攻し、完全に支配下に置いた。イギリスの駐ギャンツェ貿易特使の役職は1904年から1944年まで続いた。イギリスは、ロシアのインド侵攻を過剰に恐れていたが、ロシアの影響力は薄れていた。イギリスのチベット遠征は、「チベットが純潔を失ったという意味で、チベットに深い、それも悪い影響を与えた」。

歴史解釈

中国の歴史家は、チベット人が清政府に忠誠を誓っていたと考え、イギリス軍の侵略に英雄的に抵抗したと捉えている。イギリス軍の略奪行為を強調し、チベット併合が最終的には中国全土併合の足掛かりになると主張している。一方でチベット人は、この戦争を自己防衛戦争、清からの独立運動と捉えている。イギリスの歴史家チャールズ・アレンは、ヤングハズバンドがチベットに損害を与えたことを遺憾としつつ、1951年の中国によるチベット侵攻や文化大革命と比べれば取るに足りないものだったと主張している。

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