ウルカヌスに驚かされるヴィーナスとマルス

『ウルカヌスに驚かされるヴィーナスとマルス』

この作品は、ルネサンス期のイタリア、ヴェネツィア派の巨匠ティントレットが1555年頃に制作した油彩画です。一般的には『ヴィーナスとマルスとウルカヌス』とも呼ばれています。主題は、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』やオウィディウスの『変身物語』に登場する、愛と美の女神ヴィーナス（ギリシア神話のアプロディテ）と軍神マルス（アレス）の不倫劇です。嫉妬深い夫ウルカヌス（ヘパイストス）が、妻の不貞を疑い、現場に踏み込むという、神話の一場面をティントレット独自の解釈で描いた作品として知られています。現在は、ドイツ・ミュンヘンのアルテ・ピナコテークに所蔵されており、ベルリン美術館には本作の準備素描が所蔵されています。

神話の背景

神話では、ヴィーナスは鍛冶の神ウルカヌスの妻でありながら、夫の兄弟である軍神マルスと密通していました。ウルカヌスは、その事実を知り、復讐を誓います。卓越した技術を持つウルカヌスは、目に見えない金属の網を寝室のベッド周りに仕掛けました。そして、ヴィーナスとマルスが逢瀬を楽しんでいる最中、罠に掛かり、二人は身動きが取れなくなってしまいます。その姿は神々の目に晒され、大いに恥をかいたとされています。

作品の描写

ティントレットは、寝室に突然現れた夫ウルカヌスに驚くヴィーナスとマルスを描いています。ヴィーナスは、不倫現場を押さえられたにもかかわらず、ベッドに横たわり、まるで何事もなかったかのような平静を装っています。一方、ウルカヌスは、女神の衣服を持ち上げ、不倫の証拠を探しているかのように見えます。しかし、実際の証拠は、別の場所に明確に描かれています。背景に描かれた丸い鏡は、実はマルスの盾であり、ウルカヌスはそれに気づいていません。

マルスは、テーブルの下に身を隠し、犬を宥めようとしています。また、愛の神エロス（キューピッド）は、窓辺のゆりかごで眠っているふりをしています。この作品は、神話を独自の視点で解釈したティントレットの独創性が表れています。不倫の現場を描きながら、その場に居合わせながらも証拠を掴めていないウルカヌスを描くことで、艶笑劇のような場面を作り出しています。

構図と技法

ティントレットは、対角線上に人物像を配置し、遠近法を強調することで、奥行きのある空間を作り出しています。また、やや上方から見下ろす構図は、ティントレット作品の特徴です。背景の盾が鏡のように風景を映し出すことで、空間の奥行きがさらに拡張されています。人物の配置は、関節人形や蝋人形を使い、木製の舞台で構成を練ったのではないかと考えられています。色彩は鮮やかで、筆致は滑らかです。ヴィーナスのベッドは細やかな装飾が施されている一方で、室内の建築構造のディテールは省略されており、人物像が際立つように工夫されています。

制作年代については、1540年から1580年まで諸説ありますが、一般的には1550年代と考えられています。近年では、さらに遡って1540年頃とする説も出てきています。

作品の来歴

この作品は、かつて17世紀にイングランドで活躍した肖像画家ピーター・レリー卿が所蔵していました。1682年にデヴォンシャー公爵が67ポンドで購入し、1840年までデヴォンシャー家に留まっていました。その後、ミュンヘンの肖像画家フリードリヒ・アウグスト・フォン・カウルバッハのコレクションを経て、1925年にバイエルン州によって購入されました。

ティントレットの才能

ティントレットは、大胆な構図、鮮やかな色彩、そして物語性を重視した表現を得意とした画家です。本作は、彼の才能が遺憾なく発揮された作品と言えるでしょう。神話のストーリーを独自の解釈でドラマチックに表現し、観る者を物語の世界へと引き込みます。

参考資料

『週刊グレート・アーティスト56 ティントレット その生涯と作品と創造の源』、同朋舎出版（1995年）
『神話・美の女神ヴィーナス 全集 美術のなかの裸婦1』中山公男監修、集英社（1980年）

外部リンク

アルテ・ピナコテーク公式サイト, ティントレット『ウルカヌスによって驚かされたヴィーナスとマルス』
ベルリン美術館公式サイト, ティントレット『ヴィーナスとウルカヌス（素描）』

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