エア (武満徹)

エア（Air）

はじめに

作曲家・武満徹がその生涯の最後に手掛けた作品であり、フルート独奏のために書かれた楽曲です。1995年にその筆が執られ、武満の死後、彼の「遺作」として特別な位置づけを与えられています。曲名の『エア（Air）』には、英語の「空気（air）」とイタリア語の「歌（aria）」という二重の意味が込められており、武満らしい詩的な感覚が表れています。

作曲の背景と初演

この作品は、武満が長年にわたり親交を深めていた高名なフルート奏者オーレル・ニコレ氏の70歳を祝う記念コンサートのために委嘱され、ニコレ氏に献呈されたものです。友人への敬意と親愛の情が込められた楽曲と言えるでしょう。

世界初演は、作曲翌年の1996年1月28日、スイスのバーゼルにて、日本のフルート奏者である植村泰一氏の演奏によって行われました。しかし、初演からわずか約1ヶ月後の2月20日、武満は癌のためこの世を去ります。そして、同年2月29日に東京都港区の青山葬儀所にて執り行われた彼の告別式において、小泉浩氏によって演奏されたものが、結果として日本初演となりました。武満自身の最期と深く結びついたこの作品は、聴衆にとって単なる楽曲に留まらない、特別な響きを持つことになりました。

楽曲の構造と特徴

「エア」の演奏時間はおおよそ5分から6分程度と、比較的短い楽曲です。演奏には、一般的なフルートよりも半音低い最低音（B3）を出すことができるB足部管付きの楽器が必要です。この低音域の使用も、この作品の音響的な特徴の一つと言えるでしょう。

楽曲全体は、作曲家が1980年の作品『遠い呼び声の彼方へ!』以降、しばしば用いた特徴的な三つの音、すなわち変ホ音（Es、ドイツ語でS）、ホ音（E）、イ音（A）からなる、いわゆる「SEA」の動機に深く根差しています。武満は「海（SEA）」を重要なテーマとしており、この音名モチーフは晩年の多くの作品に登場します。

武満は『径（みち） - ヴィトルト・ルトスワフスキの追憶に、トランペット・ソロのための』など、同じSEAモチーフを他のソロ作品でも多用していますが、そうした楽曲が比較的調性から離れた浮遊感のある響きを持つ傾向にあるのに対し、『エア』では明確にイ長調の響きが強く感じられます。これは、同じく晩年の作品であり、アルト・フルートとギター（あるいはハープ、ハープと弦楽合奏）のために書かれた『海へ』を連想させます。両作品はモチーフの使用だけでなく、全体に漂う静謐で美しい音楽的雰囲気においても共通性を持っています。

さらに、『海へ』を含む武満の晩年のフルート作品に共通する顕著な特徴として、同じ音程を反復しながら音色に繊細な変化を与える「ビスビリャンド・トリル」が多用されている点が挙げられます。これは、単にメロディーやリズムといった要素だけでなく、フルートという楽器の多様な音色そのものを彫琢し、音楽の表現に深く組み込もうとする作曲家の意図を反映したものでしょう。楽譜には細かな強弱や息の指示が記されており、演奏者には高度な技術とともに、深い音楽的感性が求められます。

作品の意義

「エア」は、武満徹という偉大な作曲家が最後に残した作品であり、彼の晩年の音楽語法、特に音色への深い探求や特定のモチーフへの偏愛、そして内省的で美しい響きへの志向が凝縮されています。親しい友人への献呈、そして自身の告別式での演奏という劇的な経緯も相まって、この作品は武満の全創作の中でも特に心に響く一曲として、多くの音楽愛好家によって大切にされています。短いながらも深遠な響きを持つこの作品は、武満の音楽世界への最後の窓を開いてくれるかのようです。

もう一度検索