エティエンヌ・ロジェ

エティエンヌ・ロジェ：アムステルダムを拠点とした楽譜出版の巨星

エティエンヌ・ロジェ（Estienne Roger、1664年または1665年 – 1722年7月7日）は、フランスで生まれ、オランダ・アムステルダムで印刷、出版、販売事業を営んだ人物です。特にバロック音楽の楽譜出版において、ヨーロッパ史にその名を刻んでいます。

彼はフランス北部のノルマンディー地方、カーンでプロテスタント（ユグノー）の家庭に生を受けました。当時フランスではカトリックが優勢であり、ユグノーは度々迫害を受けていました。1685年、フランス国王ルイ14世がフォンテーヌブローの勅令を発し、ユグノーの権利を保障していたナントの勅令が撤回されると、多くのユグノーが信仰の自由を求めて国外への亡命を余儀なくされます。ロジェの一族もまた故郷を離れることになり、父は地理的に近いイングランドのロンドンへ向かいましたが、エティエンヌ自身はオランダへと渡ることを選びました。

彼がオランダを選んだ背景には、その寛容な政策がありました。当時のオランダは、ユグノーだけでなく、カトリックの一派であるヤンセン派、イングランドのピューリタン、スペインから逃れてきた改宗ユダヤ人（セファルディム）、ポーランドのソッツィーニ派など、様々な宗派や出自を持つ亡命者に対して、自国民とほぼ同等の権利を与えていました。これは、外国人にとって事業を新たに始める上での大きな障壁が少なかったことを意味し、出版業での独立を目指していたロジェにとって有利な環境でした。1686年2月にはアムステルダムのワロン派教会（フランス語を話すプロテスタントの教会）の信徒となり、当地に根を下ろします。

アムステルダムでのキャリアは、出版業界の見習いから始まりました。1691年から1694年にかけては、音楽家であり出版業者でもあったアントワーヌ・ポワンテルの下で働き、その後は別の出版業者ジャン＝ルイ・ド・ロルムのもとでも経験を積みました。これらの経験を経て、1695年10月24日には出版業者組合の資格を取得。1696年12月まではドルムと共同で事業を行っていましたが、1697年には独立し、自身の事業を本格的に開始しました。

独立当初、ロジェの出版事業は主にフランス語の書籍に焦点を当てており、主要な顧客は彼と同じ亡命ユグノーでした。1696年に発行された最初のカタログでは、書籍が21点に対し、楽譜はわずか11点でした。また、当初扱っていた楽譜も、イタリアの出版社が刊行したものを無断で再版したいわゆる海賊版が中心でした。しかし、彼は次第に楽譜出版に力を入れるようになります。オランダの印刷技術は、イタリアで主流だった移動タイプ式よりも誤植のリスクが低く、再版が容易な彫版印刷が用いられていました。さらに、亡命ユグノーたちの強力な書籍販売ネットワークは、北ドイツからイングランド、遠くイタリアに至るまで広範な販売網を構築するのに役立ちました。ロジェはこれに加え、各国の代理人を通じ、オランダやイングランドの新聞に積極的に広告を掲載するなど、巧みな宣伝戦略を展開しました。

この戦略が功を奏し、彼の楽譜事業は急速に拡大します。特に1700年には、有名なアルカンジェロ・コレッリの作品5『ヴァイオリン・ソナタ集』の再版を巡って、ロンドンの有力な出版業者ジョン・ウォルシュと激しい広告合戦を繰り広げました。この頃までに、彼の楽譜カタログ掲載点数は100を超えています。そして、彼は単なる再版業者から、重要な作品の初版を扱う出版社へと飛躍します。1711年にはアントニオ・ヴィヴァルディの傑作、作品3『調和の霊感（L'estro Armonico）』の初版を出版し、続いて1714年にはコレッリの作品6『コンチェルト・グロッソ集』の初版出版権を獲得して刊行しました。1716年の彼の最後のカタログでは、楽譜の点数は585に達しています。これにより、ロジェの会社は、ロンドンのウォルシュ、パリのル・クレールと並び称される、ヨーロッパの楽譜出版界を牽引する存在となったのです。1710年代からはヴィヴァルディのほか、アルビノーニやタルティーニといったイタリア・バロック音楽を代表する作曲家たちが、自身の作品集の初版をロジェ社から出版するようになります。また、イタリア以外の作曲家、例えばヘンデルやソミスといった作曲家の作品の再版も積極的に手がけました。

ロジェの死後、事業は複雑な経緯をたどります。彼の次女であるジャンヌ・ロジェ（1701年 – 1722年）は、1716年頃から父の事業運営に関与し、後継者として期待されていました。しかし、エティエンヌが1722年に亡くなると、ジャンヌも間もなく同じ年に死去してしまいます。ジャンヌは自身の遺言で、父親の意向を汲んだと推測される形で、事業を姉のフランソワーズ夫婦ではなく、従業員であったジェリット・ドリンクマンに譲ることを希望しました。しかし、ドリンクマンもまた間もなく亡くなり、最終的には長女フランソワーズの夫であるミシェル＝シャルル・ル・セーヌが出版事業の権利を取得しました。皮肉なことに、フランソワーズ自身も1723年に死去し、最終的にロジェの築き上げた事業はすべてル・セーヌの手に渡ることになりました。

エティエンヌ・ロジェは、単なる印刷業者や販売業者ではなく、亡命ユグノーの結束、優れた印刷技術、積極的な市場開拓戦略、そして当時の最高の作曲家たちとの関係構築を通じて、ヨーロッパにおける楽譜出版のあり方を刷新し、バロック音楽の普及に決定的な役割を果たした人物と言えるでしょう。

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