エドワード・ホッパー

エドワード・ホッパー：アメリカ社会の静謐な肖像

エドワード・ホッパー (1882-1967) は、20世紀アメリカを代表する画家の一人です。都会の喧騒や静かな田舎風景、そしてそこに佇む孤独な人物像を、独特の光と影の表現で描いた油彩画は、現代アメリカ社会の静謐な肖像として、世界中の人々を魅了し続けています。

経歴と画風

ニューヨーク州ナイアックの裕福な家庭に生まれたホッパーは、幼い頃から絵画の才能を示し、商業美術学校を経てニューヨーク美術学校で本格的に絵画を学びました。アシュカン派のロバート・ヘンライの影響を受け、アメリカ社会の写実的な描写を追求するようになります。

初期には水彩画やエッチングにも取り組み、1925年の代表作『線路沿いの家』で独自の画風を確立。単純化された構図と色彩、大胆な明度対比、強調された輪郭線によって、都会の街路、オフィス、劇場、ガソリンスタンド、灯台、田舎家など、アメリカ人の日常風景を描き出しました。

ホッパーの人物画の特徴は、人物をクローズアップせず、子供やアフリカ系アメリカ人を描かない点です。女性は当時の流行の服装、男性はソフト帽や背広姿で描かれることが多く、いずれも無表情で、視線や言葉のやり取りはなく、孤独な様子が印象的です。また、出来事そのものを描くのではなく、その前後を描写することで、観る者に想像力を掻き立てるような作品が多いのも特徴です。建造物については、高層ビルや著名建築家による建物ではなく、中産階級の個人宅を多く描いています。

若年期と芸術への道

裕福な家庭環境で育ったホッパーは、私立学校に通い、厳格なバプテストの教えの中で成長しました。しかし、父親の知的な刺激と母親から受け継いだ芸術的才能は、彼の才能を育む上で大きな役割を果たしました。10歳の頃には作品にサインと日付を記すようになり、花瓶やボウルなど幾何学的な形の木炭スケッチを残しています。すでにこの頃から、光と影の緻密な描写が彼の作品に現れています。十代には、ペンとインク、木炭、水彩、油彩など様々な画材を用いて、自然や政治的風刺画を描いていました。

高校卒業後は海軍建築家を志しましたが、最終的には芸術の道を歩むことを決意しました。両親は商業美術を学んで安定した職に就くことを望んでいましたが、ホッパーは通信教育で美術を学び、その後ニューヨーク美術学校に進学。そこでウィリアム・メリット・チェイスら著名な教師から指導を受けました。印象派の巨匠、マネやドガらの作品からも影響を受けながら、自身のスタイルを模索していきました。保守的な家庭環境で育ったホッパーにとって、モデルを前にスケッチすることは大きな挑戦だったようです。

ロバート・ヘンライは、ホッパーの教師として写生指導を行い、「重要なのはテーマではなく、何を感じるかだ」と教え、現代の精神を作品に吹き込むことを奨励しました。ホッパーは学生時代、自画像を含む多くのヌード、静物、風景、肖像画を制作し、1905年から広告代理店でアルバイトを始めましたが、商業イラストの仕事は好きではありませんでした。芸術の勉強を名目にパリを中心としたヨーロッパへ３度旅行しましたが、実際には独りで作業し、新しい芸術潮流に大きな影響を受けることはありませんでした。

苦難の日々

ヨーロッパ旅行後、ホッパーはニューヨークに戻り、自身のスタイルの確立に苦心します。経済的な事情から、再びイラストの仕事に頼らざるを得ませんでした。フリーランスとして、仕事を求めて奔走する日々は、精神的な苦悩を伴うものでした。そんな中で、1912年にマサチューセッツ州グロスターを旅し、アメリカ初の屋外絵画となる灯台の絵を制作。これが後の灯台連作の始まりとなります。

1913年、美術展覧会で作品を販売し、初めて画家としての収入を得ました。しかし、その後も苦境は続き、ニューヨークの小さなグループ展に参加する日々が続きました。この頃、父親を亡くし、マンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジに転居。映画ポスター制作などの仕事も請け負いますが、イラストの仕事は嫌いであった一方、映画や演劇は熱心なファンであり、これらは後の絵画の主題や画風にも影響を与えています。1915年には油絵に行き詰まり、エッチングに転向しました。パリやニューヨークの都市風景を中心に約70点のエッチング作品を制作し、商業作品の制作や戦争ポスターの制作も行いました。

結婚とブレイク

1923年、グロスターでの滞在中にロバート・ヘンライの教え子だったジョセフィン・ニヴィソンと再会し、翌年に結婚。ジョセフィンはホッパーのキャリアを支え、モデルとしても活躍し、生涯の伴侶となりました。ジョセフィンの支えもあり、1923年にはブルックリン美術館の展示会に出品され、作品が高く評価されました。翌年の個展では出品作すべてが売れる成功を収め、ホッパーは商業イラストの仕事を辞める決意をしました。

41歳にしてようやく認められたホッパーでしたが、その後も自分のキャリアに対しては苦々しさを感じ、人前に出たり受賞を断ったりする事もありました。しかし経済的な安定を得てからは、シンプルで安定した生活を送り、独自のスタイルで40年以上もの間創作を続けました。1920年代後半からは『夜汽車の夜』『エル・トレインの夜』など、晩年の作品に通じるテーマの作品を制作し始めます。

1930年代から1940年代初頭にかけては、『ニューヨークの映画館』『夜のカフェ』『モーニング・イン・ザ・シティ』など、多くの著名な作品を生み出し、ホイットニー美術館やメトロポリタン美術館などの主要美術館が作品を購入するなど、高い評価を得ました。1930年にはケープコッドに家を建て、夏を過ごすようになりました。1930年代後半にはバーモント州サウスロイヤルトンの農場で創作活動に没頭し、『ホワイトリバーの支流』などの風景画を制作しました。

晩年は健康上の問題を抱えるものの、1950年代から1960年代初頭にかけても、『オーケストラ席最前列』、『朝の太陽』、『線路沿いのホテル』などの著名な作品を制作し続けました。

死後と評価

1967年5月15日、ニューヨーク市内の自宅で死去。10か月後に妻のジョセフィンも亡くなり、ホッパーと共に埋葬されました。ジョセフィンの遺言により、ホッパー夫妻のコレクションはホイットニー美術館に遺贈されました。

ホッパー自身は作品について語ることを好まず、「すべての答えはキャンバスにある」とだけ述べていました。しかし、その静謐で孤独な雰囲気の作品群は、アメリカ社会の現実を深く見つめた、普遍的なテーマを描き出していると言えるでしょう。ストイックで内向的な人物像と、独特の画風は、現在も世界中で高い評価を受けており、作品は巨額で取引されています。

作品と技法

ホッパーは油彩画で最も知られていますが、初期には水彩画や商業的に成功したエッチング作品も制作しています。彼は幾何学的なデザインにこだわり、環境とのバランスを考慮して人物を配置しました。慎重で几帳面な性格で、構図を綿密に計算し、下絵を描くことも多かったようです。光と影の効果的な使用も、ホッパー作品の特徴です。明るい陽光とその影は、彼の絵画において洞察や啓示の象徴として重要な役割を果たしています。

美術展とアート市場

ホッパーの作品は市場に出回る機会が少なく、その希少性から高額で取引されています。1980年代以降、世界各地で多くの回顧展が開かれ、その人気はますます高まりました。特に、2004年のロンドンテート・モダンでの展覧会は、ギャラリー史上2番目の人気となり、ホッパーの世界的な評価を確固たるものにしました。近年では、作品が数千万ドルから数億ドルで落札されるなど、アート市場においても高い価値を持つ画家となっています。

代表作

『線路沿いの家』(ニューヨーク近代美術館)
『夜明けの灯台』(メトロポリタン美術館)
『夜の事務所』(ウォーカー・アート・センター)
『夜鷹』(シカゴ美術館)
『オートマッド』(デ・モイン・アート・センター)

参考文献

ローランス・デベック＝ミシェル『ホッパー　岩波世界の巨匠』(岩波書店)
ヴィーラント・シュミート解説『エドワード・ホッパー　アメリカの肖像』(岩波書店)
青木保『エドワード・ホッパー　静寂と距離』(青土社)

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