エリザベス・スプレーグ・クーリッジ

エリザベス・スプレーグ・クーリッジ（Elizabeth Sprague Coolidge, 1864年 10月30日 - 1953年 11月4日）は、20世紀のアメリカ合衆国において、クラシック音楽、特に室内楽の振興に多大な貢献をした主要なパトロンの一人です。アマチュアのピアニストであり、自身も作曲を手がけました。食品会社経営者であった父から受け継いだ財産を基に、50歳を迎えた頃から本格的に音楽支援を開始し、89歳で亡くなるまでの後半生を情熱的に音楽活動に捧げました。

しばしば「クーリッジ夫人」として知られる彼女の活動は、アメリカ国内にとどまらず、ヨーロッパ各地に及びました。彼女は数多くの音楽祭やコンサートを企画・開催し、同時代の著名な作曲家たちに新作の委嘱を行いました。これにより、モーリス・ラヴェル、バルトーク・ベーラ、アルノルト・シェーンベルク、アントン・ヴェーベルン、セルゲイ・プロコフィエフ、ベンジャミン・ブリテンといった作曲家たちの重要な室内楽作品や、イーゴリ・ストラヴィンスキーのバレエ音楽『ミューズを率いるアポロ』、アーロン・コープランドのバレエ音楽『アパラチアの春』などの名作が生まれました。また、ベルギーのプロ・アルテ弦楽四重奏団の活動を支援したり、イタリアの作曲家ジャン・フランチェスコ・マリピエロによるモンテヴェルディ全集の校訂を財政的に支えるなど、具体的な音楽活動への援助も惜しみませんでした。

彼女の最大の功績の一つは、アメリカ議会図書館に音楽ホール（クーリッジ・オーディトリアム）を設立し、さらに「エリザベス・スプレーグ・クーリッジ財団」を創設したことです。これは、国の機関が民間の基金を受け入れて運営するという画期的な試みであり、アメリカ議会図書館における民間基金の受入れ制度の礎を築きました。

生涯

エリザベス・スプレーグは、南北戦争中の1864年、シカゴの裕福な家庭に生まれました。父アルバート・アーノルド・スプレーグは成功した食品会社経営者でした。母ナンシーは音楽を愛好し、エリザベスを含む三姉妹は母の影響を受けて育ちましたが、二人の妹は幼くして病で亡くなりました。相次ぐ家族の死に衝撃を受けたエリザベスにとって、音楽は大きな心の支えとなりました。彼女は優れたピアノの教師につき、若くして高度な演奏技術を身につけましたが、当時の社会環境では女性がプロの音楽家として活躍することは難しく、演奏活動は限られた場でのものとなりました。

1891年、整形外科医のフレデリック・シュトレフ・クーリッジと結婚。夫の理解を得て音楽活動を続け、1893年のシカゴ万国博覧会ではシカゴ交響楽団と共演してシューマンのピアノ協奏曲を演奏しました。これは、父アルバートが創設に関わったオーケストラとの協演という意義深い出来事でした。翌年には一人息子のアルバートを出産。ピアノだけでなく作曲も学び、ルービン・ゴールドマークらに師事し、主に歌曲を作曲しました。

クーリッジ夫妻は1906年からマサチューセッツ州ピッツフィールドの別荘で過ごすようになり、エリザベスは地元の子供たちに音楽を教えました。

慈善事業と音楽支援の始まり

1915年、エリザベスは立て続けに父と夫を失いました。さらに息子が結婚して独立し、翌年には母も亡くなり、50代に入って孤独な身となりました。父から相続した巨額の遺産を、亡き家族ゆかりの事業や、自らが情熱を傾ける音楽、そして医療などの分野に役立てることを決意しました。

初期の慈善活動として、父が役員を務めたシカゴ交響楽団への多額の寄付による年金制度創設や、父の母校であるイェール大学への音楽ホール建設（スプレーグ・ホール）があります。医療分野では、自身の邸宅を病院に提供したり、結核患者のための病院を建設したりしました。教育分野では、いとこが始めた教育施設を財政的に援助しています。

音楽支援は、シカゴのヴァイオリニスト、フーゴ・コルチャック率いる弦楽四重奏団への援助から本格化しました。彼らをバークシャー郡に招き、バークシャー弦楽四重奏団として活動拠点を設け、1918年には演奏会場となる音楽ホール「テンプル」を建設しました。同年秋には第1回バークシャー音楽祭を開催。ここで行われた作曲コンクールは新人作曲家の登竜門となり、室内楽のレパートリー拡充に貢献しました。

しかし、エリザベスはこうした個人的な支援を、より公的で永続的な制度として発展させることを構想していました。その頃、彼女はアメリカ議会図書館音楽部長となったカール・エンゲルと出会います。エンゲルの提案で、バークシャー賞受賞作品の自筆譜を議会図書館に寄贈したことから、公的機関との協力関係が始まりました。

議会図書館とクーリッジ財団

楽譜寄贈に続き、エリザベスは議会図書館内で音楽作品が演奏されることを強く望みました。当時の議会図書館にはコンサート施設がなかったため、まずは外部会場での演奏会を実現。さらに、1924年には議会図書館内に室内楽専用の音楽ホールを建設するための資金を提供し、「クーリッジ・オーディトリアム」が誕生しました。

ホールの建設と並行して、音楽祭運営や作品委嘱を行うための基金を議会図書館内に設立することを提案。これは前例のない試みでしたが、議会図書館長の尽力により法整備が進み、1925年3月、「エリザベス・スプレーグ・クーリッジ財団」が議会図書館に設立されました。彼女が出資した40万ドル以上の資金を運用するこの財団により、音楽祭、コンクール、演奏会、作品委嘱、楽譜収集といった事業が公的なものとして継続されることになりました。エリザベスは実務をエンゲルに任せつつも、作曲家選定や選曲など、音楽的な事柄については強い影響力を持ち続けました。クーリッジ財団の設立は、その後の議会図書館が様々な民間基金を受け入れる道を開いたという点でも歴史的な意義があります。

クーリッジ音楽祭と国内外での活動

完成したクーリッジ・オーディトリアムでは、1925年10月に第1回「室内楽のための議会図書館音楽祭」、通称「クーリッジ音楽祭」が開催されました。開催最終日の10月30日はエリザベスの誕生日であり、この日は「ファウンダーズ・デイ」（創設者の日）として、彼女の死後も記念コンサートが続けられています。第1回音楽祭では古典作品とともに委嘱新作が演奏され、エリザベスはラジオ中継を試みるなど、多くの人々に音楽を届けることに情熱を燃やしました。音楽祭は不定期で開催され、ストラヴィンスキーのバレエ音楽『ミューズを率いるアポロ』など重要な作品の初演の場となり、プロ・アルテ弦楽四重奏団やルドルフ・ゼルキン、アドルフ・ブッシュといった著名な演奏家のアメリカデビューも実現しました。

エリザベスの活動はアメリカ国外にも広がり、1920年代から1930年代にかけて、ローマ、ロンドン、パリ、ベルリンなどヨーロッパ各地で音楽祭を開催。ベルギーのプロ・アルテ弦楽四重奏団を特に支援し、彼らのためのコンサートシリーズを長年にわたって開催しました。無償でのコンサート開催や演奏家の滞在費負担など、気前良い支援を行ったことから、彼女は古代ローマの文化保護者にちなんで「アメリカのマエケナス」と呼ばれるようになりました。また、室内楽への貢献を顕彰する「コベット・メダル」を1924年に受賞し、これに倣い自ら「クーリッジ・メダル」を1932年に創設しています。

特にイタリアとの繋がりは深く、カゼッラやマリピエロといった若手作曲家たちと交流し、マリピエロのモンテヴェルディ全集校訂や新音楽協会への資金援助を行いました。

委嘱活動と人物像

エリザベスは個人として、またクーリッジ財団を通じて、国内外の多くの作曲家に作品を委嘱しました。フランク・ブリッジ、レベッカ・クラーク、パウル・ヒンデミット、ベンジャミン・ブリテンらに個人で委嘱したほか、ラヴェル、シェーンベルク、バルトーク、ウェーベルン、コープランド、マリピエロ、バーバーなど、多数の著名な作曲家に財団から作品を委嘱しました。委嘱作品は100曲を超え、その中にはコープランドの『アパラチアの春』のようにピューリッツァー賞を受賞するなど、音楽史上の傑作も少なくありません。財団委嘱の契約には、議会図書館での世界初演、自筆譜の寄贈といった条件が盛り込まれていることが多かったようです。

エリザベスは身長が約184cmと長身でした。音楽家としては致命的ともいえる難聴を患い晩年は補聴器を常に使用していましたが、人並外れた体力の持ち主でした。カール・エンゲルが「英明な頑固さ」と評したように明晰な頭脳を持ち、複数の大規模な事業を並行して進める能力がありました。また、「基準への忠誠」を重んじ、音楽の演奏レベルから事務処理に至るまで、全ての事柄において高い水準を自身と他者に厳しく求めました。一方でユーモアもあり、エンゲルを「マイケル」とニックネームで呼んだり、自身を冗談で「別のクーリッジ夫人」（当時のカルヴィン・クーリッジ大統領夫人との区別）と称したりしました。

パトロンとして彼女がユニークだったのは、自らピアニストとして室内楽演奏に参加した点です。彼女は「最高の音楽」をできるだけ多くの人々に届けることを使命と考え、演奏会を無料かつ先着順とすることにこだわりました。また、ラジオ放送にいち早く着目し、多くの音楽番組のスポンサーとなり、アメリカの家庭に弦楽四重奏を普及させた功績は特に大きいとされています。

彼女にとって「最高の音楽」は主にヨーロッパの音楽であり、議会図書館のエンゲルが提唱する「アメリカ第一」主義には同意しませんでした。また、現代音楽の全てを理解していたわけではなく、チャールズ・アイヴスの作品は好まなかったと伝えられています。

晩年と遺産

高齢となり体調を崩したエリザベスは、1947年頃からワシントンを離れ、息子夫婦の近くで静かに暮らすようになりました。

1953年 10月30日、89歳の誕生日を祝う「ファウンダーズ・デイ・コンサート」が開催され、バーバーの歌曲集が初演されました。しかし、エリザベス自身はこの演奏を聴くことはできませんでした。誕生日の前日に肺炎を発症し、そのまま11月4日に帰らぬ人となったのです。彼女の遺灰は、ピッツフィールドにある夫の墓地に納められました。

エリザベス・スプレーグ・クーリッジは、20世紀クラシック音楽史、特に室内楽の分野に計り知れない貢献をしました。彼女の支援により多くの傑作が誕生し、才能ある音楽家たちが活躍の機会を得ました。アメリカ議会図書館に設立されたクーリッジ財団は、彼女の遺志を受け継ぎ、現在も音楽文化の振興を続けています。彼女の情熱と先見性は、「アメリカのマエケナス」として、今なお高く評価されています。

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