クララ・ハスキル

ルーマニアに生まれたピアニスト、クララ・ハスキル（1895-1960）は、その類稀なる音楽性で20世紀後半の音楽界に深い感銘を与えました。特にモーツァルト作品の解釈は伝説的と称され、古典派から初期ロマン派にかけての幅広いレパートリーで知られています。

ハスキルの演奏は、何よりもその純粋な音色と透徹した音楽性が特徴でした。ヴァイオリンの演奏経験に由来するともいわれる自然で呼吸の長いフレージングは、聴く者に深い感動を与えました。彼女はモーツァルトのみならず、スカルラッティ、ベートーヴェン、シューマンといった作曲家の作品においても、その本質を見抜くかのような優れた解釈を示しました。

幼少期に父を亡くした後、クララはウィーンで著名なリヒャルト・ローベルトに師事しました。ローベルト門下からはルドルフ・ゼルキンやジョージ・セルといった錚々たる音楽家が育っています。その後、短期間ながらフェルッチョ・ブゾーニからも薫陶を受けました。10歳でパリ音楽院に入学し、公式にはアルフレッド・コルトーに師事したことになっていますが、実際にはラザール・レヴィやジロー＝ルタルズ夫人からの指導がその学びの中心でした。コルトーは若きクララの才能を認めつつも、「家政婦が演奏しているようだ」と評するなど独特の厳しい態度をとり、事実上、彼女の教育を同僚に委ねていました。

15歳で音楽院を最優秀の成績で卒業したハスキルは、間もなくヨーロッパ各地での演奏活動を開始します。しかし、早くから病弱な体質に苦しみ、1913年には脊柱側弯のためにギプスを装着するなど、健康上の問題を抱えていました。さらに、1920年代には極度の舞台負けに悩まされ、批評家の不評や経済的な困難に直面するなど、順風満帆とは言えないキャリアのスタートでした。

当初フランスを活動拠点としていましたが、第二次世界大戦中、ユダヤ系であった彼女はヴィシー政権下の状況を避けるためスイスへ出国を余儀なくされました。戦後も、スイスやオランダを中心に活動を展開します。生涯を通じて清貧のうちに過ごしたハスキルの真価が広く認められるようになったのは、第二次世界大戦終結後のことでした。特に1949年に行われたオランダでの一連のコンサートは、その評価を決定づける契機となりました。

1950年代に入ると、ようやく彼女に脚光が当たるようになります。ヘルベルト・フォン・カラヤンをはじめとする一流の指揮者たちと共演し、パブロ・カザルスや喜劇王チャーリー・チャップリンといった著名人との交流にも恵まれました。フランスなどヨーロッパ各地での演奏会は、熱狂的な聴衆の支持を得るようになりました。しかし、生まれ持った虚弱な体質と控えめな性格のため、同時代の他の大ピアニストたちと比較すると、その活動範囲や頻度は限定的でした。

師コルトーとの関係には、複雑なエピソードが残されています。ハスキルは自分の演奏会のチケットをコルトーに送り、来場を懇願しましたが、彼は一度もその演奏会に姿を見せませんでした。この理由を尋ねた妹弟子の遠山慶子に対し、コルトーは「クララには放っておくことが必要なのだ」と語り、「孤独な時にもっとも素晴らしいものを生み出す才能がある。生涯満足をさせないことが彼女を生かす道なのだ」と説明したといいます。

また、ハスキルはモーツァルトのピアノ協奏曲第21番を、演奏会で一度も弾きませんでした。その理由を問われた際、彼女は二つのことを明かしました。一つは、若くして亡くなった才能溢れる弟弟子のディヌ・リパッティがこの曲をあまりに完璧に演奏したこと。そしてもう一つは、コルトーに「私みたいに、死ぬほど人の前で弾くのが怖い人には、あの曲は弾けない」と言われたからだと打ち明けています。

室内楽奏者としても優れた才能を発揮し、ジョルジュ・エネスコ、ウジェーヌ・イザイ、パブロ・カザルスといった巨匠たちと共演しましたが、なかでもヴァイオリニストのアルテュール・グリュミオーとの共演は特に有名で、数々の名盤を残しています。

その生涯は、突然の幕切れを迎えます。1960年 12月7日、ブリュッセルの駅で転落し、その際に負った怪我の原因で急逝しました。奇しくも、その翌日にはグリュミオーとの共演が予定されていました。事故後、意識を回復した際に彼女は、駆けつけた妹たちに、グリュミオーと共演できなくなったことを詫びるように伝え、さらに弱々しくも「少なくとも、手だけは守って無事だったわ」と微笑んだといいます。

クララ・ハスキルの亡骸は、パリのモンパルナス墓地に静かに眠っています。師アルフレッド・コルトーは彼女の死を悼むメッセージを録音しており、その早すぎる死を惜しみました。彼女の遺功を讃え、1963年からはスイスのヴヴェイ市で「クララ・ハスキル国際ピアノ・コンクール」が開催され、才能ある若手ピアニストに道を開いています。また、親交のあったチャールズ・チャップリンは、「私が人生で会った3人の天才」として、ウィンストン・チャーチル、アインシュタイン教授と共にクララ・ハスキルの名を挙げ、「彼女のタッチは絶妙で、表現は素晴らしく、テクニックは並外れていた」と最大限の賛辞を送っています。彼女の奏でた清澄な響きは、今なお多くの人々に愛され続けています。

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