チップス先生さようなら

ジェームズ・ヒルトンによって1934年に発表されたイギリスの小説、『チップス先生さようなら』は、英語の原題を『Goodbye, Mr. Chips』といいます。この作品は、幾度となく舞台や映像作品として再構成されてきた不朽の名作として広く知られています。19世紀末から20世紀初頭という、社会が大きな変革期を迎える時代を背景に、イングランドの全寮制パブリックスクールで教鞭をとる、ごく平凡な一人の男性教師の波乱に満ちた半生を丁寧に描き出しています。時代の大きな潮流と、その中で静かに生きる主人公の日常とが巧みに対比されて描かれている点が特徴です。

物語の舞台と主人公

物語の主な舞台は、イングランド東部の湿地帯（フェンズ）に位置するとされる架空の村、ブルックフィールドです。この村にある、同じく架空の男子校「ブルックフィールド・スクール」に、主人公であるアーサー・チッピングが新任教師として赴任するのは、普仏戦争が勃発した年、1870年の9月のことでした。当時22歳だった彼は、主にギリシア語とラテン語を担当します。古き良き伝統と規律を重んじる一方で、生徒たちのいたずらには寛容でユーモアを解する彼は、次第に生徒や同僚から「チップス先生」という愛称で親しまれる存在となっていきます。

波乱の半生と愛

夏休みに訪れた湖水地方での休暇中、チップス先生は自分よりはるかに年下の快活な家庭教師、キャサリンと運命的な出会いを果たし、結婚します。明るく魅力的なキャサリンは、すぐに学校の教師仲間や家族、そして生徒たちの間で人気者となり、彼女の影響でチップス先生自身の見識も広がり、彼は人生で最も充実し幸福な時期を過ごします。しかし、その幸福は長くは続きません。結婚からわずか二年後、キャサリンは出産時に胎児と共に帰らぬ人となってしまうのです。

深い悲しみを乗り越え、チップス先生はその後も教職を続け、1913年に一度は引退します。しかし、第一次世界大戦が始まり、学校の教員が不足したため、1916年に再び教壇に立つことになります。戦時下、愛国心を煽るような教育が求められる同調圧力の中にあっても、彼は自らの信念を曲げず、変わらぬペースで授業を続けました。そして1918年11月11日、第一次世界大戦の終戦の日を迎えると同時に、彼は再び教職を辞します。

晩年と最期

教職を離れた後、チップス先生は長年住み慣れた学校近くの下宿で静かに暮らしました。趣味の読書にふけりながら、かつての教え子たちが訪ねてくるのを楽しみに待つ日々を送ります。下宿の居間には、生徒たちとの思い出の品々が並び、彼はそこで多くの卒業生たちとの交流を深めました。ある時、麻疹にかかって入院した少年リンフォードに、ユーモアを交えて学校生活の助言をする一幕も描かれています。キャサリンを失ってからは再婚することもなく、他の女性に心を寄せることもなく独身を貫いた彼は、1933年11月、85年の生涯に静かに幕を閉じます。彼の死に際し、かつて助言を与えた少年リンフォードが「チップス先生、さようなら」と別れを告げるシーンは、読者の心に深く残る印象的な場面です。

出版の歴史

この作品は、発表当初から異例の成功を収めました。1933年、福音派の新聞『ブリティッシュ・ウィークリー』の付録として初めて世に出た後、翌1934年4月にはアメリカの著名な雑誌『アトランティック』に特別企画として再掲載され、大きな注目を集めます。この雑誌掲載が契機となり、著者とアメリカの出版社リトルブラウン・アンド・カンパニーの間で書籍化に向けた交渉が急速に進められました。折しも世界は大恐慌の渦中にあり、多くの出版社が経営危機に瀕していましたが、リトルブラウン社は僅少な部数でスタートさせたにも関わらず、市場の反応は驚くほど高く、わずかひと月のうちに急遽、増刷を決定します。その後も需要は衰えず、同社は数ヶ月にわたり毎月少なくとも二度のペースで、慎重ながらも着実に再版を重ねていきました。イギリス本国では、アメリカでの成功を見守っていたホッダー&ストートン社から、1934年10月になって初めて刊行されました。同社はアメリカでの状況を踏まえ、最初からまとまった部数を印刷しましたが、発売初日だけで1万5千部を売り上げる記録的な売れ行きを見せ、読者の強い要望に応えるべく、すぐに再版を決定しました。この世界的な成功により、ジェームズ・ヒルトンは一躍、国際的なベストセラー作家としての地位を確立したのです。

繰り返し映像化される名作

『チップス先生さようなら』は、その感動的な物語ゆえに繰り返し映像化されてきました。中でも特によく知られているのは、二度にわたる劇場公開映画です。一つは1939年にロバート・ドーナットが主演を務めた作品で、ドーナットはその卓越した演技が高く評価され、アカデミー主演男優賞を獲得しました。この年は『風と共に去りぬ』のクラーク・ゲーブルなどが強力なライバルと目されていた中での受賞であり、その快挙は特筆されます。もう一つは1969年にピーター・オトゥール主演で製作された作品で、こちらはミュージカル映画として大胆に脚色され、キャサリン役はミュージカル女優であるペトゥラ・クラークが演じました。主演のオトゥールも、この作品でアカデミー主演男優賞にノミネートされています。その他にも、1984年にはBBCでテレビミニシリーズが、2002年にもテレビ映画が製作されるなど、時代を超えて様々な形で映像化され続けていることからも、この物語が多くの人々に愛されていることがわかります。

続編

本作には、ジェームズ・ヒルトン自身によって書かれた続編が存在します。『チップス先生乾杯』（原題: To You, Mr Chips）と題されたこの続編は、1938年に発表されています。

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