ヒュー・エヴェレット3世

ヒュー・エヴェレット3世（Hugh Everett III、1930年 11月11日 - 1982年7月19日）は、アメリカ合衆国の理論物理学者です。彼は特に、1957年に発表した博士論文の中で、量子力学における画期的な「多世界解釈」を提唱した人物として世界的に知られています。しかし、その学術的な貢献とは対照的に、彼は博士号取得後すぐに物理学の道を離れ、軍事研究やオペレーションズ・リサーチの分野で独自のキャリアを築きました。彼の量子論における業績は、提唱された当時はほとんど評価されませんでしたが、晩年から没後にかけて再評価され、現代物理学における主要な解釈の一つとしての地位を確立しました。

若年期と教育

エヴェレットは1930年にワシントンD.C.で生まれ、幼少期を過ごしました。両親が早くに別居したため、彼は当初母親と暮らしましたが、7歳からは父親とその再婚相手に育てられました。幼い頃から知的な好奇心が旺盛で、12歳の時にはアルベルト・アインシュタインに手紙を書き、ある物理学的なパラドックスに対する自身の考察を述べたエピソードが残されています。

奨学金を得てワシントンD.C.のセント・ジョンズ・カレッジ高校を卒業後、アメリカ・カトリック大学に進学し、当初は化学工学を学びました。大学在学中に雑誌の記事を通じてダイアネティックスに触れ、それが後の従来の医療に対する不信感につながったと言われています。卒業時には化学工学の学位を取得しましたが、数学の分野でも学位取得に足る単位を修得していました。

1953年にアメリカ・カトリック大学を卒業したエヴェレットは、全米科学財団の奨学金を得てプリンストン大学大学院に進学しました。プリンストンでは当初数学を専攻し、ゲーム理論の研究に取り組みましたが、次第に物理学へと関心を移していきました。著名な物理学者ユージン・ウィグナーやジョン・ホイーラーのもとで学び、特にホイーラーの指導の下で量子論に関する自身のアイデアを深めていきました。

多世界解釈の提唱

プリンストン大学での研究を通じ、エヴェレットは量子力学の標準的な解釈（コペンハーゲン解釈）における観測問題に疑問を抱くようになりました。彼は、観測行為によって波動関数が収縮するという概念を不要とし、物理システム全体の波動関数が時間発展に従って線形に分岐していくという考えに至りました。このアイデアは「確率のない波動力学」と題された論文にまとめられ、後に「普遍的波動関数理論」と改題されました。

この論文のタイピングを担当したナンシー・ゴアとエヴェレットは出会い、翌年に結婚しました。エヴェレットは1957年、この理論を盛り込んだ博士論文「量子力学の基礎について」を提出し、プリンストン大学で物理学の博士号を取得しました。しかし、ホイーラーとの間で論文の内容や表現、特に「多世界」という概念の扱いに妥協が生じ、論文の最終形はエヴェレットが当初意図したものから大幅に削減されており、彼は完全に満足していませんでした。この論文は、ホイーラーによる肯定的なコメントと共に「Reviews of Modern Physics」誌に掲載されました。

キャリアの転換とコペンハーゲン訪問

博士号取得に先立つ1956年、エヴェレットは国防総省の兵器システム評価グループ（WSEG）で研究職として働き始めました。プリンストン卒業後も物理学の学術研究に戻ることはなく、彼のキャリアは大きく方向転換しました。WSEGでは、当時のコンピュータモデリング技術に触れ、その活用に関心を寄せました。彼はミニットマンミサイルの研究や、大規模核兵器使用時の放射性降下物の影響に関する研究など、機密性の高い業務に携わりました。

1959年、ホイーラーの強い勧めにより、エヴェレットは量子力学の中心地であったコペンハーゲンを訪問し、ニールス・ボーアをはじめとする主要な物理学者たちと面会しました。しかし、観測の役割を重視するコペンハーゲン学派の面々は、エヴェレットの提唱する多世界アプローチを全く受け入れず、その訪問はエヴェレットにとって非常に不快な経験となりました。ボーアの弟子のレオン・ローゼンフェルトに至っては、エヴェレットを激しく批判したと言われています。この経験は、彼が学術物理学からさらに距離を置くきっかけの一つとなったと考えられています。

コペンハーゲン滞在中に、エヴェレットはオペレーションズ・リサーチにおける最適化手法、特に一般化ラグランジュ乗数の応用に関する新しいアイデアを練り始めました。この研究は、後の彼のビジネスキャリアの基盤となりました。

ビジネスの世界での成功

国防総省での勤務を経て、エヴェレットは軍事モデリングで培った技術を民間分野に応用するため、1964年に同僚と共にラムダ・コーポレーションを設立しました。軍事的な手法を民間の問題解決に活用することを目指しましたが、国防予算の縮小などの影響もあり、後にゼネラルリサーチ社に吸収されました。

1973年には、ドナルド・ライスラーと共にDBS社を設立し、主にビジネスコンサルティングやシステム分析の分野で活躍しました。彼らは海軍艦船のメンテナンス最適化といった軍事関連のプロジェクトに加え、司法省や保健福祉省から委託を受け、政府のアファーマティブ・アクション・プログラムの効果分析なども手がけました。DBS社は、エヴェレットが開発したアルゴリズムを活用するアメリカン・マネジメント・システムズ（AMS）と提携関係にあり、エヴェレットはAMSの非管理部門のバイスプレジデントも兼任しました。彼はプログラミング技術にも長けており、仕事に活用しました。残りの人生の大半を、DBS社での業務に費やしました。

死後における多世界解釈の再評価

エヴェレットが物理学研究から離れ、ビジネスの世界で成功を収める一方で、彼の量子論に関する業績は、提唱から長い間、ほとんど注目されていませんでした。しかし、1970年代に入り、量子デコヒーレンスの発見などが契機となり、多世界解釈に対する関心が高まります。

特に、物理学者のブライス・ドウィットはエヴェレットの理論に着目し、「フィジックス・トゥデイ」誌に紹介記事を執筆しました。ドウィットはエヴェレットの理論を「多世界理論」と呼び、この呼称が広く使われるようになりました。さらにドウィットは、エヴェレットの博士論文と未発表論文「普遍波動関数理論」を中心とした論文集を1973年に出版しました。この論文集の出版により、エヴェレットの仕事は改めて物理学者の間で知られるようになりました。

1977年、指導教官であったホイーラーの計らいで、エヴェレットはテキサス大学オースティン校での会議に招かれ、自身の理論について講演を行いました。これは彼にとって数十年ぶりに公の場で量子論について語る機会であり、参加した多くの物理学者に影響を与えました。特に、当時ホイーラーの学生だったデイヴィッド・ドイッチュは、この講演から大きな影響を受け、後に多世界解釈の普及に貢献しました。この講演は好評でしたが、エヴェレット自身は「1956年にこの件からは手を洗った」と述べ、物理学への本格的な復帰には関心を示しませんでした。

死去、そして家族

エヴェレットは、DBS社での仕事を続けながら晩年を過ごしました。見た目は健康そうでしたが、肥満や過度の喫煙・飲酒といった習慣があり、これが健康に影響を与えたと考えられています。1982年7月、51歳で自宅にて心筋梗塞により急逝しました。

生前、エヴェレットは無神論者であり、自身の遺体はゴミとして処分してほしいと家族に伝えていました。妻は当初遺灰を保管していましたが、数年後にその遺志に従ったと言われています。彼が設立に携わった企業の一部は、形を変えて現在も存続しています。

エヴェレットには娘のエリザベスと息子マークがいました。娘のエリザベスは1996年に自殺し、妻のナンシーも1998年に癌で亡くなりました。息子のマーク・オリヴァー・エヴェレットは、Eという名で音楽活動をしており、バンド「イールズ」のフロントマンとして知られています。家族の死は、イールズのアルバム「エレクトロ・ショック・ブルース」に大きな影響を与えました。マークは後にBBCのドキュメンタリー番組で父の業績を探求し、父が著名な物理学者であったことを、その死後に初めて知ったと語っています。

ヒュー・エヴェレット3世の生涯は、量子力学における根本的な問いに対する斬新な解答を提示しながらも、学術界から離れて実業界で成功を収めるというユニークなものでした。彼が提唱した多世界解釈は、現在ではコペンハーゲン解釈などと並び、量子力学の最も重要な解釈の一つとして活発に議論され、研究されています。

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