ビルギット・ニルソン

ビルギット・ニルソン（1918年 - 2005年）は、スウェーデンが誇る20世紀を代表するドラマティック・ソプラノ歌手です。オペラや声楽の幅広い分野で活躍しましたが、特にリヒャルト・ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスの作品における傑出した歌唱で知られています。彼女の声は、その類まれなる声量、驚異的なスタミナ、そして高音域での輝かしい響きによって、世界中の聴衆や評論家から絶賛されました。

多岐にわたるレパートリーをこなし、『ニルソンのレパートリー』と称されるほどの存在感を示しましたが、中でもワーグナー作品、特に『トリスタンとイゾルデ』のイゾルデ役は彼女のキャリアに不可欠なものでした。また、プッチーニの『トゥーランドット』のタイトルロールも得意とし、自身のキャリアについて「イゾルデで名声を、トゥーランドットで富を得た」と語ったことは有名です。そのこれらの役における世界的な支配力は、第二次世界大戦前にメトロポリタン歌劇場でワーグナー歌手として君臨したキルステン・フラグスタートに比肩するものでした。

生涯

ビルギット・ニルソンは、スコーネ地方ヴェストラ・カルップスの農場で生まれました。幼い頃から歌うことが大好きで、3歳でトイピアノを弾き始めたといいます。後に「歩き出す前から歌っていた」「夢の中でも歌っていた」と回想しています。その歌声は教会で歌い始めたときに注目され、声楽の道を勧められました。

ストックホルム王立音楽アカデミーで学びましたが、彼女自身は「舞台こそが最高の学びの場であり、実際に歌って試行錯誤する中から多くを得た」と語り、自身を独学とみなしていました。一方で、初期の指導者には批判的で、「最初の二人の教師には殺されそうになった」とまで述べています。

初期キャリアと国際的な飛躍

1946年、ストックホルムのロイヤルオペラで、わずか3日前の急な代役としてウェーバー『魔弾の射手』アガーテ役でデビュー。当初は自信を失う経験もしましたが、翌年にはヴェルディ『マクベス』マクベス夫人役で国内での評価を確立しました。その後、シュトラウス、ヴェルディ、ワーグナー、プッチーニ、チャイコフスキーなど、様々な役柄に挑戦し、着実にレパートリーを広げていきました。

国際的なキャリアへの扉を開いたのは、指揮者フリッツ・ブッシュの勧めでした。1951年、グラインドボーン音楽祭でのモーツァルト『イドメネオ』エレットラ役でスウェーデン国外デビューを果たし、国際的な知名度を高めます。特に転機となったのは、1953年のウィーン国立歌劇場デビューです。以来、四半世紀以上にわたり主要な歌い手として活躍しました。

1954年にはバイロイト音楽祭でワーグナー『ローエングリン』エルザを演じ、同年にミュンヘンでバイエルン国立歌劇場による『ニーベルングの指環』全曲演奏会で初めてブリュンヒルデ役を歌いました。その後、1969年までバイロイトでジークリンデ、ブリュンヒルデ、イゾルデとして活躍しました。ミラノ・スカラ座には1958年にプッチーニ『トゥーランドット』主役でデビューし、これもキャリアにおける最大の出来事の一つと語っています。1959年にはメトロポリタン歌劇場でイゾルデを歌い、国際的なスターダムを駆け上がりました。ウィーン、ベルリン、コヴェント・ガーデン、東京など、世界中の名だたる歌劇場で喝采を浴びました。

声の特徴と評価

ニルソンは、戦後の偉大なワーグナーソプラノ、特にブリュンヒルデ役において、キルステン・フラグスタートの後継者と目されていました。当時のヘルデン・テノール、ヴォルフガング・ヴィントガッセンとの組み合わせは、当時のオペラ界における最高の顔合わせの一つとして世界中から注目されました。しかし、彼女はワーグナー作品だけでなく、ヴェルディのレオノーレやアイーダ、プッチーニのトスカやトゥーランドット、シュトラウスのエレクトラやサロメなど、多くのドラマティック・ソプラノの役柄を精力的に歌い、数多くの録音を残しています。

『ニューヨーク・タイムズ』紙は、彼女の声を「完璧で、本物であり、難攻不落のスタミナを持つ」と評しました。指揮者のエーリヒ・ラインスドルフは、彼女が長きにわたりトップ歌手として活躍できた要因として、スカンジナビアの伝統に根ざした思慮深さや几帳面さを挙げています。一方で、ニルソン自身は自らを「特別なことはしていない、健康的な両親のもとに生まれただけ」と謙遜して語りました。

メトロポリタン歌劇場では、公演中に二度怪我により中断を余儀なくされました。1971年には『エレクトラ』公演中に足首を捻挫し、1974年には『神々の黄昏』のリハーサル中に転倒して肩を脱臼しました。「打撲傷を負い、肉体的にも精神的にも傷ついているが、それ以外は元気だ」と語り、最初の公演は腕を吊ったまま歌いましたが、その後の公演はキャンセルとなりました。

また、1968年から1977年に自殺するまで、ネル・セオバルドという若い女優・モデルからの執拗なストーカー被害に悩まされました。回顧録では彼女を「ミス N.」とだけ記し、この辛い経験を振り返っています。

録音と劇場との関係

ニルソンは、主要なレパートリーのほとんどを録音しています。特に、デッカ社によるジョン・カルショー・プロデュース、ゲオルク・ショルティ指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との『ニーベルングの指環』全曲録音（1958年-1965年）でのブリュンヒルデ役は歴史的な名盤として知られています。ステレオ録音技術が発展し、レコード会社が競って名作を再録音していた時期に、彼女がワーグナー・ソプラノの第一人者であったことは、実演に触れる機会がなかった聴衆にもその存在感を強く印象付けました。自身の声の録音については、スタジオでは「本来あるべき状態で録音されていない」と感じており、ライブの方が優れているという評価を必ずしも喜んではいなかったと述べています。

メトロポリタン歌劇場には頻繁に出演しましたが、当時の総監督ルドルフ・ビングや指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンとの関係は、必ずしも良好ではなかったようです。特にカラヤンとは対立することも多く、多くの逸話が残されています。納税申告で扶養家族を問われた際に「ルドルフ・ビング」と答えたという逸話は有名です。また、フランク・コレッリとの『トゥーランドット』での高音対決や、カラヤンとのリハーサルでのユニークな振る舞いに関する逸話も数多く伝えられています。

1970年代半ばには、アメリカでの税務問題により一時的にアメリカでの活動を休止せざるを得ない時期もありました。

メトロポリタン歌劇場では16役を223回歌い、ウィーン国立歌劇場には232回出演しました。特にメトでのイゾルデ52回、トゥーランドット33回は特筆されます。ウィーン国立歌劇場からは名誉会員の称号も贈られています。

晩年と遺産

1984年に現役から引退し、スウェーデン南部の故郷の農場に戻り、静かに暮らしました。農家出身の両親から受け継いだ「地面の近くにいなさい。そうすれば、転んでもそんなに痛くない」という言葉を大切にしていたと言います。

スウェーデンでは切手の肖像に採用され、政府から最高位の勲章であるイリス・クォールムゴールドメダルを授与されるなど、多大な顕彰を受けました。また、若手オペラ歌手を支援するための「ビルギット・ニルソン賞」も設立されました。

ビルギット・ニルソンは、2005年 12月25日、87歳で亡くなりました。その死はしばらく公表されませんでした。長年連れ添った夫の獣医、バーティル・ニクラソンは2007年に死去しました。二人の間に子供はいませんでした。

彼女の遺志により設立されたビルギットニルソン財団は、彼女の遺贈を基金として、オペラ界に多大な貢献をした個人や団体に数年ごとに賞を授与しています。第一回受賞者にはプラシド・ドミンゴが選ばれました。2016年にはスウェーデン銀行発行の500クローナ紙幣に肖像画が使用されるなど、その功績は後世に長く語り継がれています。

もう一度検索