マリア・マリブラン

19世紀、オペラ界において最も輝きを放ったスターの一人、マリア・マリブラン（1808-1836）。フランスに生まれ、わずか28歳でこの世を去った彼女は、その卓越した歌唱力、広範な声域、そして何よりも強烈な個性と波乱に満ちた生涯によって、時代を超えた伝説的存在となりました。コントラルトからソプラノまでを自在に歌い分ける稀有な才能と、舞台上で見せる圧倒的な表現力は、同時代の音楽家たちからも熱狂的な支持を集めました。

生涯とキャリア

マリアは、パリで高名なスペインの音楽家一家、ガルシア家にマリア・フェリシタス・ガルシア・シチェスとして誕生しました。父マヌエル・ガルシアは、テノール歌手として活躍し、ロッシーニからも称賛された人物であり、作曲家、声楽教師としても名を馳せていました。厳格な父から直接、声楽の基礎を学んだマリアでしたが、強い自己主張を持つ二人の間では、レッスン中にしばしば衝突が起きたと伝えられています。

彼女が初めて公式な舞台に立ったのは8歳の時、ナポリでのフェルディナンド・パエール作曲のオペラ『アニェーゼ』でした。キャリア初期の大きな転機は17歳、ロンドンのキングズ・シアターで訪れます。高名なプリマドンナの体調不良により、『セビリアの理髪師』のロジーナ役の代役として舞台に立ったのです。年若いマリアの登場は観客に衝撃を与え、瞬く間に人気を博しました。この成功を受け、父マヌエルは家族でオペラ一座を結成し、初のイタリアオペラ公演のためにニューヨークへと渡ります。一座の中心はマリア、兄マヌエル、母ホアキナであり、後に著名な歌手となる幼い妹ポーリーヌも同行していました。ニューヨーク滞在中に、マリアは父の意向とされる結婚により、28歳年上の銀行家フランソワ・ウジェーヌ・マリブランと結ばれます。しかし、結婚から数ヶ月で夫は破産。マリアは生活のために舞台に立ち続けざるを得なくなり、1年足らずで夫を残し一人ヨーロッパへ戻りました。

ヨーロッパに戻ったマリアは、ドニゼッティのオペラ『マリア・ストゥアルダ』初演でタイトルロールを演じるなど、さらなる成功を収めます。私生活では、ベルギー人ヴァイオリニストのシャルル＝オーギュスト・ド・ベリオと深く愛し合い、夫フランソワとの婚姻無効が成立するまでの間、事実婚の関係を続けました。1833年には息子シャルル＝ウィルフリッドが誕生しています。この二人にメンデルスゾーンが『アリア』を献呈したというエピソードも残されています。パリ国立オペラをはじめとするヨーロッパ各地の一流劇場で活躍し、アイルランドの作曲家マイケル・ウィリアム・バルフの作品にも出演しました。

晩年と夭折

1834年にイングランドへ拠点を移した後も、ロンドンの舞台を中心に活動を続けました。しかし1836年7月、落馬事故により重傷を負ってしまいます。医師の治療を拒み舞台に立ち続けた結果、事故から数ヶ月後の同年9月23日、脳血栓が原因で急逝しました。わずか28歳での早すぎる死は、彼女の存在をより一層伝説的なものとしました。遺体はベルギーのラーケン墓地に葬られています。

歌唱力とレパートリー

マリア・マリブランの声域は驚異的に広く、G3からE6に及び、さらに低音D3から高音F6まで出すことができたと伝えられています。この並外れた声域により、彼女はコントラルトからハイソプラノまで、様々な声種の役柄を自在に演じ分けることが可能でした。特にロッシーニ作品との結びつきが強く、『タンクレーディ』『オテッロ』『セミラーミデ』など、多くの作品で主役を務めました。他にもベッリーニの『ノルマ』『夢遊病の女』『カプレーティとモンテッキ』や、マイアベーアの『エジプトの十字軍』など、幅広いレパートリーを持っていました。ベッリーニは彼女のために『清教徒』をメゾソプラノ用に改作し、さらに新作を書き下ろすことを約束していましたが、彼の早世により実現しませんでした。フランスの音楽評論家カスティル=ブラーズは、その歌声と技巧を「力強く鮮やかで活力に満ちた声は、情熱的なアリアとなって聴衆の心を揺さぶる。清澄で正確なアルペジオ、力強く魅力的な節回しは、あらゆる芸術がもたらす幸福感に満ちている」と絶賛しています。一方、画家ドラクロワのように、彼女の歌唱を大衆迎合的だと批判する声もありましたが、その存在が同時代の音楽家や芸術家に大きな影響を与えたことは疑いようがありません。

後世への影響

マリア・マリブランの波乱に満ちた生涯は、後世の人々にも強いインスピレーションを与え続けました。彼女を描いた映画が複数製作されており、イタリアの『マリア・マリブラン』（1943年、監督グイド・ブリニョーネ、主演マリア・チェボターリ）、フランスの『ラ・マリブラン』（1944年、監督サシャ・ギトリ、主演ジェオリ・ブエ）、ドイツの『マリア・マリブランの死』（1971年、監督ヴェルナー・シュレーター、主演マグダレーナ・モンテズマ）などが挙げられます。

また、21世紀に入ってからも彼女への関心は高く、2007年にはメゾソプラノ歌手チェチーリア・バルトリが、マリブランに捧げたアルバム『マリア』をリリースし、関連ツアーやDVD発売も行いました。翌年には、バルトリ主演でベッリーニの『夢遊病の女』が録音されました。この録音では、マリブランがかつて使用していた多くのカデンツァが再現され、役の声域も彼女が歌っていた時代の慣習に倣い、ハイ・メゾソプラノに戻されています。マリア・マリブランは、その短い生涯の中で、オペラ史に不滅の輝きを残した不世出のディーヴァとして、今なお多くの人々を魅了し続けています。

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