モーツァルト家の大旅行

1763年から1766年にかけて、音楽家レオポルト・モーツァルトとその妻アンナ・マリアは、類まれな音楽の才能を持つ二人の幼い子供、娘のマリア・アンナ（愛称ナンネル）と息子のヴォルフガング・アマデウスを伴い、ヨーロッパ各地を巡る大規模な演奏旅行を実施しました。

旅の開始時、ナンネルは11歳、ヴォルフガングは7歳でした。彼らの卓越した能力は、この大旅行に先立つ1762年のウィーン訪問時に既に明らかになっており、ハプスブルク帝国の女帝マリア・テレジアの前でもその演奏を披露しています。この成功により、ヨーロッパ主要都市での演奏活動が大きな社会的・経済的成果をもたらす可能性を感じ取ったレオポルトは、ザルツブルクの宮廷で務めていたカペルマイスター代理の長期休暇を取得することを領主司教に願い出ました。その後の旅で子供たちが見せた驚くべき演奏は聴衆に深い感銘を与え、二人の「神童」としての名声を不動のものとしました。

神童という存在

18世紀において、モーツァルト家の子供たちだけが「神童」として注目されたわけではありません。教育研究者のゲイリー・スプルースは数百にも及ぶ同様の事例があったと指摘し、例えば3歳でオルガンリサイタルを行ったウィリアム・クロッチなどを挙げています。イギリスの学者ジェーン・オコナーは、当時の神童ブームの背景には「並外れた才能を持つ子供が持つ潜在的な娯楽性や金銭的価値」が認識されたことがあると説明します。モーツァルトと同世代の神童には、ヴァイオリニストのトーマス・リンリーやオルガン奏者のジクストゥス・バッハマンなどがいました。その中でもモーツァルトは、早くからの成功と将来性から、後の世代の神童を評価する上での基準となっていきます。

初期教育とウィーン訪問

レオポルトとアンナ・マリアの間には7人の子供がいましたが、幼少期を生き延びたのはナンネル（1751年生まれ）とヴォルフガング（1756年生まれ）の二人だけでした。彼らは父レオポルトから読み書き、算術、絵画、そして歴史や地理といった基礎教育を受けました。音楽教育は、レオポルトやその同僚の音楽家たちの日常的な練習や演奏に触れることで自然に進められました。ナンネルが7歳でチェンバロを習い始めると、ヴォルフガングはそれを観察し、すぐに非凡な才能を発揮しました。彼は自分で和音を見つけ、喜びを表し、5歳になる頃には自作の可愛らしい曲を演奏しては父に書き留めてもらうほどでした。友人のヨハン・アンドレアス・シャハトナーによれば、4歳のヴォルフガングは既に本格的な楽曲を作り始めており、絶対音感のような驚異的な音の感覚を示していたといいます。

ナンネルもまた非常に飲み込みが早く、11歳で高い技術を持って鍵盤楽器を演奏していました。1762年、レオポルトは子供たちを連れてミュンヘンに行き、バイエルン選帝侯の前で演奏させました。その後、一家はウィーンへ向かい3ヶ月滞在しました。複数の貴族の招待を受けていた彼らは、到着後すぐに演奏会を行い、ヴォルフガングはその驚異的な才能で人々を魅了しました。ウィーン訪問中、ヴォルフガングは後のフランス王妃マリー・アントワネットとなる皇女と出会ったという逸話も残っています。ウィーンの貴族の間で名声を得た一家は頻繁に演奏を求められ、レオポルトは短期間で自身の年収をはるかに超える額を送金しました。しかし、ヴォルフガングが猩紅熱にかかったことで活動は一時中断されました。このウィーンでの成功が、レオポルトにさらなる社会的・経済的成功を求める大きな動機を与えたのです。

大旅行の始まりと各地での活動

ウィーンから戻ったヴォルフガングは、大司教の誕生記念演奏会で驚くべき演奏を披露しました。レオポルトは友人に、ヴォルフガングの演奏を聴いた人物が「生涯一度の奇跡」と評した言葉を伝え、この奇跡を世界に知らしめることが自らの使命だと確信しました。ヒストリアンの間では、この幼少期からの過酷な旅がヴォルフガングに与えた影響について議論がありますが、音楽的な成長や身体的な回復力に関する否定的な証拠は少ないとされます。

レオポルトは、子供たちの若さが才能の衝撃を最大化すると考え、旅行を急ぎました。当初計画されたルートには南ドイツ、ネーデルラント、パリ、スイスが含まれていましたが、パリ滞在中に急遽ロンドン行きが決まり、ネーデルラントへの訪問は計画外の回り道となりました。旅程は文化的な中心地や宮殿を多く含むように組まれ、レオポルトは自身のコネクションを活用しました。フランクフルトでの演奏会には、当時14歳のゲーテも聴衆として参加しています。広告では姉弟の演奏技術、特にヴォルフガングの即興演奏や目隠しでの演奏が強調されました。

パリに5ヶ月滞在した後、一家はロンドンへ渡り、1年以上滞在しました。ロンドンでは国王ジョージ3世とその王妃の前で演奏する機会を得ました。ヴォルフガングはヘンデルやJ.C.バッハの作品を演奏し、即興演奏も披露しました。ロンドン滞在中、レオポルトが病に倒れたため、ヴォルフガングは作曲に専念することになります。彼はJ.C.バッハとの交流から触発され、最初の交響曲を作曲しました。これらの初期オーケストラ作品は、同時代の作曲家たちの水準を凌駕する完成度を示していました。ロンドンでは他にもヴァイオリンソナタや声楽曲などが作曲されています。レオポルトの回復後、一家は再び中心部に戻り、J.C.バッハやアーベルといった著名な音楽家たちとの交流を深めました。

ロンドンを離れた一家は、ネーデルラントに向かいました。ここでは姉弟が相次いで病にかかり（ナンネルは腸チフス、ヴォルフガングは不明）、演奏活動に大きな影響が出ました。しかし、ヴォルフガングは旺盛な作曲意欲を見せ続け、新たな交響曲や王子のための作品などを書きました。特に、アリアや変奏曲、ヴァイオリンソナタ集といった幅広いジャンルの作品を手がけ、音楽的な成熟度が増したことがうかがえます。

ネーデルラントを出発した一家は、再びパリに立ち寄った後、スイスを経由して帰路につきました。各地で演奏会を開き、ジュネーヴでは作曲家グレトリから試される一幕もありました。この旅の最終目的地であるザルツブルクには、1766年 11月29日に到着し、約3年半に及ぶ大旅行が幕を閉じました。

旅行の成果とその後

この大旅行は経済的に多くの出費を伴いましたが、成功した演奏会や貴族からの報酬により、一家は旅を続けることができました。レオポルトは旅の途中で金銭的な不安を感じることもありましたが、総収入は相当な額に上ったと考えられます。

音楽的な面では、二人の子供、特にヴォルフガングは驚異的な進歩を遂げました。彼は各地で一流の音楽家たちと出会い、多様な音楽スタイルに触れ、作曲家としての基礎を築きました。ロンドンでのJ.C.バッハやアーベルからの影響は特に大きく、彼の初期交響曲に反映されています。また、様々なジャンルの作品に取り組むことで、作曲家としての能力を飛躍的に向上させました。

大旅行の終了後、モーツァルト一家の生活は劇的に変わることはなく、レオポルトは元の宮廷音楽家の職に戻りました。しかし、この旅を通じて得た国際的な経験は、子供たちにとってかけがえのない財産となりました。特にヴォルフガングは、その後もウィーンやイタリアなどへの演奏旅行を続け、作曲家としてのキャリアを積み重ねていくことになります。大旅行は、神童モーツァルトが世界的な音楽家へと成長していく上で、極めて重要な第一歩となったのです。

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