三井美代子

日本の陸上競技において、「日本陸上競技界の至宝」や「ミス陸上」といった華やかな異名で称えられた三井美代子（結婚後：井上）は、1919年に東京で生を受け、後に静岡県沼津市で育ちました。走高跳でそのキャリアをスタートさせましたが、後に障害走、特に80メートルハードルを主戦場としました。競泳の古田つね子選手と共に、静岡県から初めてオリンピックの舞台に立った女性アスリートであり、その功績は地元のスポーツ史においても特筆すべきものです。

競技人生の始まりと才能の開花

東京での幼少期を経て、小学4年生で家族と共に沼津へ移り住んだ美代子は、スポーツへの熱意を持つ父・純一氏に見守られながら成長しました。尋常小学校時代に際立った実績はなかったものの、静岡県立沼津高等女学校（現・沼津西高等学校）へ進学後、体操教師の塩飽吾一氏によってその非凡な才能が見出されます。「関節のバネが非常に強い」と評された美代子は、2年生になった1932年には走高跳で注目を集め始めました。小柄ながらも驚異的な跳躍力を持ち、3年生時には1メートル46センチを記録し、その年の日本女子走高跳十傑のトップに躍り出ます。この頃、来日していたポーランドの強豪、スタニスラワ・ワラシェビッチから指導を受け、「まだまだ伸びる」と励まされた経験は、彼女の競技人生に大きな影響を与えたでしょう。

4年生に進級すると、美代子は80メートルハードルでもその才能を発揮し始めます。1934年の日本女子オリンピックでは、80メートルハードルと走高跳で二冠を達成。この年、80メートルハードルで12秒7の自己ベストをマークし、日本女子十傑で1位を獲得するなど、複数の種目で上位にランクインしました。当時の日本の陸上界を牽引していた織田幹雄氏も、彼女の柔軟な体と強いバネ、洗練されたフォームを高く評価しました。

体専での鍛錬とオリンピックへの道

スポーツへの情熱を燃やし続けた美代子は、両親の理解を得て、1935年に日本女子体育専門学校（現・日本女子体育大学）に進学しました。全寮制の環境で、厳格な校長として知られる二階堂トクヨ氏の下、他の生徒と同様に徹底した指導を受けます。体専での鍛錬を経て、明治神宮体育大会での活躍が認められ、1936年のベルリンオリンピック日本代表候補に選出されました。体専からは美代子を含め複数の選手が候補となり、二階堂校長は専用の練習部屋を用意するなど、選手たちが集中できる環境を整えました。美代子は先輩の広橋百合子選手や林月雲選手と共に候補生活を送り、特に80メートルハードルに注力して練習に打ち込みました。しかし、オリンピック選考会に向けてスランプに陥るなど、苦悩も経験しました。

1936年5月に開催された最終選考会では、先輩である林月雲選手を僅差で破り、ベルリンオリンピック日本代表の座を掴み取ります。美代子を含め体専から選ばれた選手・役員たちは、二階堂校長から激励のルビーの指輪を贈られ、これを肌身離さず努力を重ねたといいます。

ベルリンでの挑戦と帰国

オリンピック出発前の報道では、その長い脚（約83センチ）が注目される一方、80メートルハードルには強豪選手が揃っており、入賞は困難との厳しい見方も示されました。1936年 8月5日、ベルリンオリンピックの女子80メートルハードル予選に出場した美代子でしたが、スタートで出遅れ、中盤で挽回を試みるも4着となり、惜しくも準決勝進出は叶いませんでした。しかし、スタジアムで観戦していた日本の人々は、体格差のある世界の選手たちに混じって奮闘する小柄で可憐な彼女の姿に大きな感動を覚えました。ベルリンでは、かつて指導を受けたワラシェビッチ選手と再会し、記念撮影をしています。オリンピック後、美代子は帰国し、次期開催が予定されていた1940年の東京オリンピックでの活躍を期待され、練習を続けました。

現役引退とその後の人生

1938年に体専を卒業後、埼玉県立秩父高等女学校に教員として就職しました。東京オリンピックに出場するまでは現役を続けるつもりでしたが、同年7月に東京大会の開催返上が発表されたことで、美代子の競技人生は転換点を迎えます。出場を予定していた大会を病欠し、同年10月に現役を引退しました。教職は1年で辞め、家族の元へ戻った後は芝浦製作所（現・東芝）で事務職に就きました。

終戦後、陸上界の重鎮である織田幹雄氏の仲介により井上利見氏と結婚し、2男1女の母として家庭を築きました。子供たちもスポーツに親しみ、野球やテニスに打ち込みました。美代子自身も陸上競技との関わりを断つことはなく、1980年には吉岡隆徳氏らの呼びかけに応じて設立された東京マスターズ陸上競技連盟の発起人の一人となり、正式発足後は理事を務めるなど、引退後も陸上界に貢献しました。この連盟は、競技第一線を退いた選手たちが年齢や体力に合わせて陸上を楽しむ場として設立されたものです。

三井美代子氏は、2007年 4月28日、88歳でその生涯を閉じました。生前、家族から深い愛情を注がれ、父が作った自身の競技に関するスクラップブックを宝物として大切にしていました。選手時代は小柄で可憐な印象でしたが、晩年はスポーツ経験者らしいがっしりとした体格の元気な姿を見せていたといいます。競技においては、スタートを苦手とする一方、ハードルを越える動作の美しさは「当代随一」と称賛されるなど、その選手像は多様な側面を持っていました。ベルリンオリンピック出場という輝かしい経歴を持ちながら、東京オリンピック中止により競技キャリアを終えざるを得なかった点は残念ではありますが、彼女が日本の女子陸上界に残した足跡は色褪せることはありません。

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