中江丑吉

中江 丑吉は、1889年（明治22年）8月14日に大阪で生まれ、思想家として広く知られる中江兆民の長男にあたります。幼少期から高等教育までを日本で過ごし、1913年に東京帝国大学法学部政治学科を卒業しました。

大学を卒業した翌年、彼は中国へ渡ります。これは、当時中国で袁世凱政権の憲法制定顧問を務めていた有賀長雄博士の助手を務めるためでした。この渡航の背景には、かつて日本へ留学し、中江家に滞在した経験を持つ当時の中国官界の実力者、曹汝霖や章宗祥との特別な縁があったとされています。助手としての任期を終え、1915年夏に一度日本へ帰国しましたが、数ヶ月も経たないうちに再び中国へ渡り、以後約30年にわたる北京での生活を始めました。

北京での生活の中で、中江は中国の思想研究に深く傾倒していきます。1919年に発生した五四運動の際には、旧友である曹汝霖と章宗祥を救出する行動をとる一幕もありました。この頃から、彼の研究は精力的な論文発表として実を結び始めます。1925年以降、「中国古代政治思想史第一巻」を皮切りに、「衛鞅の商邑と張儀の商於とに就いて」「中国の封建制度に就いて」「商書般庚篇に就いて」「公羊傳及び公羊學に就いて」「書廿九篇に関する私見に就いて」など、中国学に関する重要な論文を次々と発表しました。

しかし、彼の北京での生活は、世俗から隔絶された孤高のものでした。『順天時報』に時評を寄稿したこともありましたが、多くは西園寺公望や南満州鉄道からの庇護を受けながら、自宅に籠もって研究に没頭する日々でした。その特異な生活ぶりから、北京に滞在する日本人からは「奇人」と噂されるほどでした。1935年初めには、突然北京を引き払い東京に戻ったものの、わずか1ヶ月足らずで再び北京へ戻るという不可解な行動もありました。この頃を境に、彼は自ら積極的に中国学に関する論文を発表することをやめ、「書廿九編」の続編である「洛誥系統諸篇を論ず」は未完のままとなりました。

研究活動の傍ら、中江は中国革命を支援する姿勢も見せました。潜伏中の片山潜や佐野学といった革命家を自宅に匿い、中国革命の協力者である鈴江言一の学びに手を貸すこともありました。一方で、自身の学問的探求は弛緩することなく、カント、ヘーゲル、カール・マルクス、マックス・ウェーバーといった西洋哲学・社会科学の古典を原書で繰り返し読み込むという厳しい日課を継続していました。彼の専門分野における学識は高く、京都帝国大学教授の小島祐馬からもその実力を認められていました。

1937年の盧溝橋事件を機に日中戦争が勃発すると、中江はこの紛争がやがて「世界戦争の序曲」となると即座に見抜きました。知人であった今田新太郎中佐に対して、対中戦争の遂行は必ず失敗に終わるだろうと説き、戦線の拡大を阻止するよう強く勧告したと伝えられています。太平洋戦争（大東亜戦争）が始まってからも、彼の確信は揺るぎませんでした。近衛文麿首相や岡村寧次総司令官からの招きにも応じず、日独枢軸側の必敗を確信し、その見解を周囲の人々に憚ることなく公言しました。このため、北京の憲兵隊からは「聖戦を白眼視するスネモノ」として厳重な監視下に置かれることとなりました。

晩年、中江は重度の肺結核と診断されます。病状が悪化したため、1942年5月に日本へ帰国し、九州大学病院に入院しました。そして、同年8月3日、52歳でその生涯を閉じました。中江には妻子がいなかったため、彼の死去をもって中江家は断絶することとなりました。孤高の研究者であり、時代の流れに逆行するかのような反戦思想を貫いた中江丑吉の生涯は、当時の日中関係や日本の知識人のあり方を考える上で、今なお重要な問いを投げかけています。

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