信玄軍記
松本清張の歴史小説『信玄軍記』は、戦国時代に甲斐を本拠とした武田信玄の生涯を追い、その初陣から晩年に至るまでの軌跡を描いた作品です。
この小説は、1956年3月号から5月号にかけて雑誌『小説春秋』に連載され、同年4月には河出書房新社から単行本として刊行されました。もともとは、中学生を対象とした学習雑誌に掲載された『武田信玄』という作品を、より広い読者層に向けて書き直したものです。さらに、この『武田信玄』を年少の児童向けに易しくした『決戦川中島』や、『信玄軍記』に加筆修正を施した『信玄戦旗』といった派生作品も存在します。
物語は、父・武田信虎が信濃への野心を燃やす場面から始まります。初陣を迎えた嫡男の晴信（後の信玄）はわずか16歳ながら、敵将である平賀源心を討ち取るという華々しい戦果を上げ、甲府へ凱旋します。しかし、信虎は晴信の成功を喜ばず、冷たい態度をとります。父からの疎外を感じた晴信は、一時は家督を弟の次郎に譲ることも考え、武芸を遠ざけて詩文に心を寄せますが、重臣である板垣信方の諫言を受けて考えを改めます。やがて信虎は内外からの圧力により隠居を余儀なくされ、晴信が若くして武田家の当主となります。
家督を継いだ信玄は、信濃平定を目指し、諏訪頼重や小笠原長時との激しい抗争を経て、さらに村上義清との死闘を繰り広げながら勢力を拡大していきます。信濃の奥地へと進むにつれて、越後の龍と称される長尾景虎（後の上杉謙信）との避けられない対決へと向かっていく様が描かれています。
作中に登場する主要な人物には、主人公である武田信玄（晴信）のほか、信玄の父であり晴信を遠ざけ弟を偏愛する武田信虎、武田家を支える老臣の一人である板垣信方、信玄と川中島で雌雄を決する越後の将・上杉謙信、そして醜い容姿ながら信玄に才を見出されて軍師となる山本勘助などがいます。これらの人物が、信玄の生涯に深く関わっていきます。
著者である松本清張自身は、子供の頃に見た絵本の影響で、謙信が勇ましく信玄が狡猾に見え、「信長や秀吉に人気があり、家康に人気がないのと似ている」と感じていたと述懐しています。しかし、歴史的事実に基づけば「謙信のほうが信玄にくらべて大ぶん見劣りがする」というのが清張の史観でした。
現代文学研究者である鶴田武志氏は、清張作品が、一見好意的に見られにくいが、地道さや堅実さという点で評価できる人物に焦点を当てる傾向があると指摘します。その上で、『信玄軍記』の元となった『中学コース』連載の『武田信玄』について、当時の児童向け伝記において武田信玄は必ずしも人気の題材ではなく、上杉謙信が優位に描かれることが多かった歴史的背景を分析しています。そうした状況下で、『武田信玄』においては、謙信寄りの視点ではなく、「明朗快活で情に厚い一方、現実主義者としての実行力を持つ」といった、人間的な魅力と政治・軍事的な能力を兼ね備えたバランスの取れた英雄としての信玄像が、新たな解釈に基づいて構築されたと論じています。
鶴田氏はまた、『信玄軍記』が『武田信玄』から改稿された点を詳細に検討しています。全体のプロットは踏襲しつつも、中学生向けに必要だった説明的な記述は簡潔化され、諏訪御料人や山本勘助といった、信玄の内面を映し出す役割を担う人物がより深く組み込まれたことを指摘しています。さらに、史料に基づく解釈が人物描写に生かされる形で挿入されることで、『信玄軍記』は信玄の人間性に焦点を当てた作品として深化していると分析しています。
『信玄軍記』から派生した作品の一つである『決戦川中島』は、1957年に大日本雄弁会講談社から刊行されました。中学生対象だった『武田信玄』よりもさらに低い年齢層を対象とし、文章表現は平易に改められています。「戦国の若武者」「川中島の決戦」「燃える陣火」の三部構成で、武田信玄を主人公としつつ、まえがきでは戦国時代の魅力や、信玄の単なる強さだけでなく日頃の思慮深い生き方にも目を向けてほしいという著者の願いが記されています。『信玄軍記』にはない「裏富士」「いななく木馬」「怪星」といったエピソードが加えられており、諏訪御料人には「七重姫」という名前が与えられています。この『決戦川中島』は、2007年に装丁を改めて幻冬舎から再刊されており、発行元の社長が高橋将人氏は「自身が一番影響を受けた信玄もの」であり、現代の大人にも通用する読み物として評価しています。
もう一つの改稿版である『信玄戦旗』は、1987年に角川書店から刊行されました。『信玄軍記』とは章立てが大きく変更され、「山峡の源氏」「雪中初陣」など全10章で構成されています。この作品では、信玄の人生だけでなく、その前史、軍事組織の詳細、周辺大名の動向（桶狭間の戦いなど）、さらには信玄の謙信に対する複雑な感情など、評伝的な記述が加筆されているのが特徴です。また、韮崎での合戦のエピソードが削除される一方、妹・禰々の自害が追加されるなど、物語のエピソードにも取捨選択や入れ替えが行われています。諏訪御料人はこの作品では「百合」という名で登場します。
これらの作品を通して、松本清張が武田信玄という歴史上の人物に新たな光を当て、その人間性や時代背景を深く掘り下げようとした意図がうかがえます。『信玄軍記』は、後の派生作品の基盤となるとともに、清張の歴史小説における一つの到達点を示す作品と言えるでしょう。
この小説は、1956年3月号から5月号にかけて雑誌『小説春秋』に連載され、同年4月には河出書房新社から単行本として刊行されました。もともとは、中学生を対象とした学習雑誌に掲載された『武田信玄』という作品を、より広い読者層に向けて書き直したものです。さらに、この『武田信玄』を年少の児童向けに易しくした『決戦川中島』や、『信玄軍記』に加筆修正を施した『信玄戦旗』といった派生作品も存在します。
物語は、父・武田信虎が信濃への野心を燃やす場面から始まります。初陣を迎えた嫡男の晴信（後の信玄）はわずか16歳ながら、敵将である平賀源心を討ち取るという華々しい戦果を上げ、甲府へ凱旋します。しかし、信虎は晴信の成功を喜ばず、冷たい態度をとります。父からの疎外を感じた晴信は、一時は家督を弟の次郎に譲ることも考え、武芸を遠ざけて詩文に心を寄せますが、重臣である板垣信方の諫言を受けて考えを改めます。やがて信虎は内外からの圧力により隠居を余儀なくされ、晴信が若くして武田家の当主となります。
家督を継いだ信玄は、信濃平定を目指し、諏訪頼重や小笠原長時との激しい抗争を経て、さらに村上義清との死闘を繰り広げながら勢力を拡大していきます。信濃の奥地へと進むにつれて、越後の龍と称される長尾景虎（後の上杉謙信）との避けられない対決へと向かっていく様が描かれています。
作中に登場する主要な人物には、主人公である武田信玄（晴信）のほか、信玄の父であり晴信を遠ざけ弟を偏愛する武田信虎、武田家を支える老臣の一人である板垣信方、信玄と川中島で雌雄を決する越後の将・上杉謙信、そして醜い容姿ながら信玄に才を見出されて軍師となる山本勘助などがいます。これらの人物が、信玄の生涯に深く関わっていきます。
著者である松本清張自身は、子供の頃に見た絵本の影響で、謙信が勇ましく信玄が狡猾に見え、「信長や秀吉に人気があり、家康に人気がないのと似ている」と感じていたと述懐しています。しかし、歴史的事実に基づけば「謙信のほうが信玄にくらべて大ぶん見劣りがする」というのが清張の史観でした。
現代文学研究者である鶴田武志氏は、清張作品が、一見好意的に見られにくいが、地道さや堅実さという点で評価できる人物に焦点を当てる傾向があると指摘します。その上で、『信玄軍記』の元となった『中学コース』連載の『武田信玄』について、当時の児童向け伝記において武田信玄は必ずしも人気の題材ではなく、上杉謙信が優位に描かれることが多かった歴史的背景を分析しています。そうした状況下で、『武田信玄』においては、謙信寄りの視点ではなく、「明朗快活で情に厚い一方、現実主義者としての実行力を持つ」といった、人間的な魅力と政治・軍事的な能力を兼ね備えたバランスの取れた英雄としての信玄像が、新たな解釈に基づいて構築されたと論じています。
鶴田氏はまた、『信玄軍記』が『武田信玄』から改稿された点を詳細に検討しています。全体のプロットは踏襲しつつも、中学生向けに必要だった説明的な記述は簡潔化され、諏訪御料人や山本勘助といった、信玄の内面を映し出す役割を担う人物がより深く組み込まれたことを指摘しています。さらに、史料に基づく解釈が人物描写に生かされる形で挿入されることで、『信玄軍記』は信玄の人間性に焦点を当てた作品として深化していると分析しています。
『信玄軍記』から派生した作品の一つである『決戦川中島』は、1957年に大日本雄弁会講談社から刊行されました。中学生対象だった『武田信玄』よりもさらに低い年齢層を対象とし、文章表現は平易に改められています。「戦国の若武者」「川中島の決戦」「燃える陣火」の三部構成で、武田信玄を主人公としつつ、まえがきでは戦国時代の魅力や、信玄の単なる強さだけでなく日頃の思慮深い生き方にも目を向けてほしいという著者の願いが記されています。『信玄軍記』にはない「裏富士」「いななく木馬」「怪星」といったエピソードが加えられており、諏訪御料人には「七重姫」という名前が与えられています。この『決戦川中島』は、2007年に装丁を改めて幻冬舎から再刊されており、発行元の社長が高橋将人氏は「自身が一番影響を受けた信玄もの」であり、現代の大人にも通用する読み物として評価しています。
もう一つの改稿版である『信玄戦旗』は、1987年に角川書店から刊行されました。『信玄軍記』とは章立てが大きく変更され、「山峡の源氏」「雪中初陣」など全10章で構成されています。この作品では、信玄の人生だけでなく、その前史、軍事組織の詳細、周辺大名の動向（桶狭間の戦いなど）、さらには信玄の謙信に対する複雑な感情など、評伝的な記述が加筆されているのが特徴です。また、韮崎での合戦のエピソードが削除される一方、妹・禰々の自害が追加されるなど、物語のエピソードにも取捨選択や入れ替えが行われています。諏訪御料人はこの作品では「百合」という名で登場します。
これらの作品を通して、松本清張が武田信玄という歴史上の人物に新たな光を当て、その人間性や時代背景を深く掘り下げようとした意図がうかがえます。『信玄軍記』は、後の派生作品の基盤となるとともに、清張の歴史小説における一つの到達点を示す作品と言えるでしょう。
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