分裂病の精神病理

『分裂病の精神病理』シリーズとは

『分裂病の精神病理』シリーズは、日本の精神医学史において重要な位置を占める画期的な論集です。精神科医である土居健郎が中心となり、1972年に、当時の気鋭の精神医学者たちが統合失調症（当時の名称は「分裂病」）に関するワークショップを行った成果をまとめたことから始まりました。当初は単発の企画としてスタートしましたが、その内容が大きな反響を呼び、結果として足掛け26年という長期にわたり、計24巻が刊行される壮大なシリーズへと発展しました。

激動の時代背景と研究の出発

本シリーズの刊行が始まった1970年代初頭は、日本の精神医学界が大きな困難に直面していた時代でした。1960年代の反体制的な大学闘争の波は、学会組織にも影響を与え、精神病理学の学会が短期間で崩壊するという事態まで起きていました。反精神医学の潮流が強く、「統合失調症は単なる社会的レッテルに過ぎない」といった極端な主張が聞かれる中で、病理そのものを深く探究しようとする研究者たちは逆風にさらされました。シリーズの立ち上げに関わった中井久夫は、当時の状況について、「統合失調症の研究そのものが善か悪かという議論さえあったほど、極めて緊張した雰囲気の中で病理研究が始まった」と述懐しています。研究者への露骨な妨害や脅迫といった事態すら発生する中で、彼らは学問的信念を貫き、研究を続けました。

濃密なワークショップが生んだ成果

こうした厳しい状況下で、土居健郎のもとに笠原嘉、安永浩、宮本忠雄、木村敏、中井久夫といった著名な精神医学者たちが集結しました。彼らは旅館などに籠もり、合宿形式でワークショップを実施。各自の研究発表を基に、互いの知見を率直かつ真剣にぶつけ合う濃密な議論を重ねました。この研鑽の成果が、本書シリーズの各巻に収められた論考群として結実したのです。シリーズが進行するにつれて、村上靖彦、永田俊彦、市橋秀夫、中安信夫など、次世代の精神病理学を担う若手研究者たちも加わり、議論はさらに深まりました。本シリーズで展開された多角的な視点からの探究は、精神医学という専門領域を超え、哲学をはじめとする人文科学の分野にも広範な影響を及ぼしました。

シリーズの展開と学会の発展

非公開のワークショップを基盤としたシリーズであったため、次第により開かれた議論の場を求める声が内部から高まりました。この動きは、日本の精神病理学研究の組織化を促進する契機となります。1980年には専門誌『臨床精神病理』が創刊され、1988年にはついに「日本精神病理学会」が設立されました。学会発足に伴い、東京大学出版会から刊行されていた『分裂病の精神病理』（全16巻）は1987年で終了となりました。しかし、その学術的価値は失われることなく、1988年からは星和書店が出版を引き継ぎ、『分裂病の精神病理と治療』と改題して刊行が継続されました。この新シリーズも1997年までに全8巻が刊行され、全体として四半世紀以上にわたる壮大な学術プロジェクトが完結を見ました。

精神医学の不朽の古典として

『分裂病の精神病理』シリーズは、日本の精神病理学がいかに深く豊かな学問であるかを鮮烈に示しました。特に統合失調症という複雑な病理への理解を深める上で、本書シリーズは今なお参照されるべき不朽の古典として、確固たる金字塔を打ち立てています。本書シリーズに触れた多くの人々が、統合失調症という世界の奥深さ、そして精神病理学という学問の持つ可能性に目を開かれました。刊行から長い歳月を経ても、その内容は色褪せることなく、現代の精神医学研究や臨床において重要な示唆を与え続けており、多くの読者によって今なお広く読み継がれています。

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