呉鳳

呉鳳：虚構と現実の狭間で揺れ動く台湾の物語

台湾嘉義県阿里山周辺に伝わる呉鳳（ごほう）の物語は、日本統治時代から国民党政権下まで、台湾の教科書に掲載され、国民に広く知れ渡りました。彼は漢民族の通訳として、台湾原住民であるツォウ族との間で活躍し、首狩りの悪習を止めるために自らの命を犠牲にした、偉大な人物として描かれてきました。しかし、1980年代以降、この物語は虚構であると批判され、台湾原住民からの強い反発を受け、教科書から削除されることになります。本稿では、呉鳳をめぐる複雑な歴史と、その背後に潜む政治的、社会的な背景を多角的に考察します。

清朝時代の伝承：曖昧な存在の始まり

呉鳳に関する最古の記録は、清朝道光年間の役人、劉家謀の漢詩集『海音詩』（1855年）にみられます。この記述によると、呉鳳はツォウ族と漢民族の交易に従事する通訳であり、ツォウ族の漢民族への襲撃計画を阻止しようと試み、その過程で殺害されたとされています。呉鳳の死後、ツォウ族は彼の祟りを恐れ、漢民族を襲うのをやめたという伝承も存在します。しかし、『海音詩』の内容は簡潔であり、呉鳳の実在性や詳細な事績は不明瞭です。

その後、1894年の『雲林縣采訪冊』には、より詳細な呉鳳の伝承が記されています。『雲林縣采訪冊』では、呉鳳がツォウ族の悪習を止めようとしたものの失敗し、最終的に自らの身代わりとなる紙人形を作り、自らツォウ族に赴き殺害されたとされています。彼の死後、ツォウ族は呉鳳の祟りを恐れて漢民族を襲うのをやめ、廟を建てて祀るようになったと伝えられています。

これらの伝承は呉鳳を、単なる通訳から、神霊や鬼神といった超越的な存在へと変容させていく過程を示唆しています。嘉義県東部には、清朝時代に呉鳳を祀る廟が複数建てられたことが確認されており、呉鳳信仰が19世紀末の漢民族社会に根付いていたことが分かります。特に、社口村の呉鳳廟は、呉鳳の没後まもなく建立されたとされ、長年にわたって信仰の対象となってきました。しかし、これらの伝承はあくまでも口伝であり、歴史的裏付けとなる史料は存在しません。

日本統治時代の顕彰：新たな英雄像の創造

1895年、日本による台湾統治が始まると、台湾総督府は呉鳳の伝承に着目します。日本は台湾支配における大きな課題として、土匪（地方武装勢力）、複雑な民族・族群構成、原住民との関係を抱えていました。特に山間部の原住民支配地域からは、樟脳などの貴重な資源を獲得する必要がありました。

台湾総督府は、呉鳳を「自己犠牲の精神で原住民の悪習を止めさせた英雄」として積極的に顕彰します。このプロパガンダは、原住民支配政策への協力と、漢民族社会の統制強化を目的としていました。伊能嘉矩や後藤新平といった人物が呉鳳の顕彰に深く関与し、呉鳳廟の再建、記念碑の建立、そして呉鳳の伝記『殺身成仁通事呉鳳』（1912年、中田直久著）の刊行など、様々な事業が展開されました。

『殺身成仁通事呉鳳』は、呉鳳の生没年を確定し、彼の自己犠牲を強調した物語を構築しました。この物語は、台湾の公学校、そして日本本土や朝鮮の教科書にも採用され、呉鳳は広く知られる英雄となりました。しかし、この物語は、既存の伝承を改変し、日本による台湾支配の正当性を強調するものでした。

戦後の呉鳳：国民党による利用と原住民の抵抗

戦後、台湾を統治した中国国民党も、呉鳳を「中国伝統の倫理観に合致する人物」として積極的に利用しました。呉鳳廟の改修、記念碑の建立、そして教科書への掲載などが行われ、呉鳳は国民党のイデオロギーを体現する存在として位置づけられました。

しかし、1980年代になると、呉鳳物語の虚構性と、原住民への差別的なイメージを助長する点について、批判が高まりました。人類学者陳其南の批判をきっかけに、台湾原住民運動が盛んになり、呉鳳神話打破運動が展開されます。これは、台湾原住民の権利擁護と、歴史的真実の回復を目指す運動でした。

運動家たちは、呉鳳廟での抗議行動、教科書からの削除要求、呉鳳郷の改名などを訴えました。その結果、1988年には呉鳳が小学校の教科書から削除され、1989年には呉鳳郷が阿里山郷と改名されました。

結論：呉鳳物語の教訓

呉鳳物語は、歴史的虚構と政治的利用が複雑に絡み合った、台湾の歴史を象徴する物語です。この物語は、支配者側の都合に合わせて作られ、一方の当事者である原住民の視点が完全に無視されたものでした。呉鳳神話打破運動は、台湾社会における多文化共生と歴史認識の転換の契機となりました。この事件は、歴史を正しく理解し、他者の視点に耳を傾けることの重要性を改めて私たちに問いかけています。呉鳳廟は、今もなお存在し、漢民族の民間信仰の対象として受け継がれています。しかし、その存在は、かつて教科書で教え込まれた虚構の物語によって傷つけられた台湾原住民の記憶と、向き合う必要があるでしょう。

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