大野乾

大野乾（おおの すすむ、1928年2月1日 - 2000年1月13日）は、20世紀後半に活躍したアメリカ合衆国の著名な生物学者です。日本統治下の朝鮮、京城府（現在のソウル）で生まれ、その生涯を通じて分子遺伝学、細胞遺伝学、進化生物学といった分野で数々の重要な発見や理論提唱を行いました。特に、「遺伝子重複説」や「X染色体上の遺伝子保存則」、通称「大野の法則」を提唱したことで広く知られています。

大野氏の研究は多岐にわたり、初期には哺乳類における性染色体の不活性化機構の解明に取り組みました。この研究の過程で、メスの体細胞核に見られる凝縮した構造体が、父母由来のどちらか一方のX染色体であることを発見し、後に「バー小体」として知られるこの構造の起源を明らかにしました。これは性染色体の遺伝子発現調節機構を理解する上で極めて重要な発見でした。

性染色体そのものや、性の決定に関わる遺伝子に関する研究も精力的に行いました。1967年と1979年に出版された単行本では、哺乳類の性染色体がどのようにして常染色体から進化してきたのかという説を提唱しています。また、性決定経路において最も上位に位置する主要な遺伝子の存在を示唆するなど、性発生メカニズムの理解にも貢献しました。

大野氏の最も影響力のある業績の一つが「遺伝子重複説」です。生物の進化、特に新しい機能を持つ遺伝子が出現するメカニズムについて、既存の遺伝子が複製されて生じた重複遺伝子が、徐々に変化して新たな役割を獲得していくという革新的な考え方を提唱しました。この理論は、1970年に著書『Evolution by Gene Duplication』として発表され、世界中の進化生物学研究に大きな影響を与えました。さらにこの著書の中で、脊椎動物のようなより複雑な生物のゲノム進化には、ゲノム全体が重複する「倍数化」が関わっており、これが遺伝子数の爆発的な増加を引き起こしたとする「2R仮説（2 round duplication hypothesis）」も提示しています。この2R仮説は、近年のゲノム配列解析によってその正当性が実証されつつあります。

遺伝子重複説と関連して、かつて機能を持たないと思われていたDNA領域を指す「ジャンクDNA」という概念を初めて提唱したのも大野氏です。また、遺伝子の塩基配列やタンパク質のアミノ酸配列の構成原理、さらには遺伝子コードの起源に迫る深遠な考察も展開しました。

ユニークな試みとしては、「DNA音楽（遺伝子音楽）」が挙げられます。これは、DNAの4種類の塩基配列に音楽の音符の構成原理との類似性を見出し、塩基を音符に対応させて音楽にするという試みです。例えば、1つの塩基に複数の音符（例：Aに「レ」と「ミ」）を割り当てるなどして、DNA配列を「演奏」することを試みました。

大野氏の研究スタイルは、実験に基づいたデータから深い洞察を引き出し、明快で説得力のある議論を展開することに特色がありました。分子レベルから染色体レベル、さらには大きなスケールの大進化に至るまで、様々な進化過程そのものだけでなく、それらの相互の関連性についても統合的に考察しました。1968年に木村資生が提唱した中立進化説に関連して、木村資生と太田朋子が1974年にまとめた分子進化に関する原則のうち二つには、大野氏の遺伝子重複に関する考え方が取り入れられています。

教育者としても、多くの優秀な研究者を育成しました。山口陽子、森望、須藤鎮世、早川智、四方哲也といった日本の生物学者も彼の指導を受けています。また、秋篠宮殿下の学位論文指導者の一人でもありました。

その功績に対し、アメリカ芸術科学アカデミーや米国科学アカデミーの会員に選出されたほか、ピーター・ボリッド特別功労賞、ミネソタ大学ベル病理学博物館シルバーメダル賞、日本人類遺伝学会賞、生殖生物学エーモリー賞、日本遺伝学会木原賞、デンマーク王立科学アカデミー新設マルガレーテ女王賞など、数々の栄誉ある賞を受賞しています。

大野乾氏は、遺伝子重複という普遍的なメカニズムが進化学に果たす役割を喝破し、ゲノム進化研究の基礎を築いた先駆者として、科学史にその名を刻んでいます。彼の理論や概念は、現代のゲノム科学や進化生物学において不可欠な基盤となっています。

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