天の筏

スティーヴン・バクスターの記念すべき書籍デビュー作であり、後の壮大なシリーズの端緒を開いたハードSF小説、『天の筏』（Raft）。1991年に英国で刊行され、日本語版は1993年に早川書房から古沢嘉通氏の翻訳、大野万紀氏の解説で出版されました。

この物語の舞台は、私たち現実の宇宙とは根本的に異なる、極めて特異な物理法則が支配する代替宇宙です。最大の特徴は、万有引力定数が現実のなんと10億倍も大きいという点にあります。この途方もない重力の影響により、宇宙のあり方は一変します。

まず、惑星という概念がほぼ存在しません。あまりに強い重力のため、物質が集まっても自己重力によってすぐに崩壊してしまうからです。恒星もまた、私たちの知る巨大な姿とはかけ離れています。直径わずか1.6キロメートル程度と非常に小さく、その寿命も驚くほど短いのです。燃え尽きた後には、直径91メートルほどで表面重力が5Gという強烈な冷却核（燃えかす）だけが残ります。しかし、この過酷な宇宙にも、人類が生存できる場所は存在します。それは、奇跡的に呼吸可能な大気が広がっている広大な星雲の中です。また、この高重力下では、人間の身体ですら無視できない重力場を持ち、さらには原子レベルで重力が物質の性質を決定づける「重力化学」という独特の化学法則が存在するなど、常識が通用しない世界が描かれます。

物語は、このような極端な宇宙に偶然迷い込んでしまった人類の子孫たちが、何世代にもわたってサバイバルを続ける姿を描きます。数千人にまで減った人類は、呼吸可能な星雲の内部でいくつかのコミュニティに分かれて生活しています。社会構造は非常に階層化されており、かつて乗っていた宇宙船の残骸「いかだ」に住み、失われたテクノロジーの一部を保持するエリート層。燃え尽きた星の核（ベルト）を採掘し、資源を獲得する労働者/鉱山労働者。そして、死体を加工した世界に住まう「Boneys」あるいは「unmentionables」と呼ばれる遊牧民たちです。

彼らがどのようにしてこの特異な宇宙にたどり着いたのかは、物語の中で明確には語られませんが、元の宇宙から空間の裂け目を通って、かつての宇宙船「いかだ」が到達したことが示唆されています。作者の同名短編小説では、この到着経緯についてより詳しい描写があるようです。また、後のジーリーシリーズの続編『虚空のリング』では、この高重力宇宙の存在が語られ、『天の筏』の人類がジーリーシリーズの主要な宇宙から来た可能性が示唆されますが、元の宇宙を脱出した具体的な時代は不明のままです。

人類が生存する星雲は、高重力宇宙の物理法則により、時間とともに生命にとって適さない環境へと変化しつつあります。この環境崩壊の危機に直面した人類は、奇妙な在来種とともに、新たな生存可能な場所を求めて別の星雲への脱出を試みることになります。

本作は、ラリー・ニーヴンの『インテグラル・ツリー』と共通点が多く指摘されます。どちらも呼吸可能な大気を持つ宇宙空間が舞台であり、そこに浮遊する巨大な構造物（『天の筏』の燃えかす、『インテグラル・ツリー』の浮遊樹木）に人類が生活している点、そして高度なテクノロジーを失いつつある人類という点で類似しています。

『天の筏』は、その徹底して科学法則に基づいた（フィクションとしての）世界の構築と、そこで生きる人類の過酷なサバイバルを描いた、ハードSFの傑作として評価されています。1992年にはアーサー・C・クラーク賞にノミネートされました。

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