嬰ホ短調

嬰ホ短調とは

嬰ホ短調（えいホたんちょう、英語: E-sharp minor、ドイツ語: eis-moll）は、楽典上、嬰ホ音（E♯）を主音とする短調の一つです。しかし、その音程構成と調号の複雑さから、実際の楽曲においてこの調が明確に用いられることは極めて稀であり、多くの場合「理論的な調」として扱われます。

構成音と調号

嬰ホ短調の自然短音階は、主音である嬰ホ音（E♯）から始まり、以下の音で構成されます。

嬰ホ音（E♯）
嬰ヘ音（F♯）
嬰ト音（G♯）
嬰イ音（A♯）
ロ音（B）
嬰ハ音（C♯）
* 嬰ニ音（D♯）

この調の調号は極めて特徴的で複雑です。幹音（ハニホヘトイロハ）の全てにシャープ（♯）がつくシャープ6個に加え、さらにダブルシャープ（重嬰記号、）が1つ必要となります。具体的には、嬰ホ音（E♯）を主音とする短音階を構成するために、これらの記号が用いられます。

異名同音調との関係

一般的な音楽実践において、嬰ホ短調が避けられる最大の理由は、その調号の複雑さにあります。同じ音高を持つ異名同音調であるヘ短調（F minor）は、シャープ4つという比較的簡単な調号を持つため、楽曲の表記や演奏の容易さから、嬰ホ短調の代わりに用いられることが一般的です。例えば、ピアノやヴァイオリンといった固定された調律の楽器では、嬰ホ音とヘ音は同じ音程に調律されているため、音楽的な響きとしてはヘ短調と嬰ホ短調に違いはありません。この表記上の圧倒的な優位性から、ヘ短調が選ばれるのです。

特殊な音律における使用

ただし、常にヘ短調が嬰ホ短調の代わりに使用されるわけではありません。平均律の中でも、一般的な12平均律とは異なり、特定の音程間の数学的な比率を重視する19平均律や31平均律のようなシステムにおいては、嬰ホ音（E♯）とヘ音（F）の音高が厳密には一致しないことがあります。このような、異名同音の音が区別される特殊な音響環境においては、理論通りに嬰ホ短調が用いられる可能性も存在します。

使用例

古典的な楽曲において、明確に嬰ホ短調として扱われる例は非常に少ないですが、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの有名な作品である『平均律クラヴィーア曲集第一巻』に収められている『前奏曲とフーガ 嬰ハ長調』（BWV 848）のフーガの中で、一時的にこの調の響きが現れる箇所があります。具体的には、フーガの17小節から22小節にかけて、旋律が嬰ホ短調へと転調し、この理論的な調が持つ独特の響きを短いながらも聴くことができます。これは長大なポリフォニー作品における、一瞬の色彩変化として効果的に用いられています。

このように、嬰ホ短調は音楽理論上存在する調でありながら、その特殊な構成と複雑な調号ゆえに、実践的な作曲や演奏で用いられることは稀です。しかし、異名同音の概念や特殊な音律、あるいはごく一部の作品における一時的な転調として、その存在を知ることができます。

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