安比温泉

岩手県八幡平市（かつての陸奥国にあたる地域）に位置する安比温泉は、趣を異にする二つの温泉地を含む名称として用いられています。一つは八幡平の安比高原側登山口のさらに奥、山中にひっそりと湧き出す野湯であり、もう一つは安比高原スキー場開発に伴って整備された、麓に広がる温泉街です。この記事では、これら両方の安比温泉について詳述します。

泉質

それぞれの源泉が持つ泉質は異なります。山中の野湯源泉は硫黄泉であり、いかにも山奥の秘湯らしい性質を帯びています。これに対し、温泉街の源泉は単純温泉で、その源泉温度は53℃となっています。

山中の秘湯：野湯

古くから存在する安比温泉の野湯は、現在も自然そのままの姿に近く、入浴施設らしいものは湯船があるのみです。この湯船は地元の有志によって手入れが続けられていますが、経年による劣化が見られたり、利用者が入浴前に簡単な土砂の除去など整備が必要となる場合もあります。

この秘湯の歴史を物語る貴重な記録が、秋田県立大館鳳鳴高等学校の教師であった斎藤敬三の著書『随想 山と旅』に記されています。斎藤は生涯で二度にわたり安比温泉を訪れた経験を綴っています。

最初の訪問は1932年（昭和7年）のことでした。八幡平を単独で登山中に、八幡沼のそばで偶然出会った人物が、当時安比温泉を経営していた人物でした。その勧めに応じて同行した斎藤は、その時新築されたばかりだったという二階建ての温泉施設に到着します。透き通った天然温泉での混浴を体験し、宿の主人と会話を弾ませた後、強い印象を受けつつその場を後にしました。この時代の施設は「安比温泉深山荘」として知られています。

二度目は戦後の1947年（昭和22年）の訪問です。大館中学校山岳部の引率として八幡平に登った後、斎藤は別ルートで安比温泉へ向かいました。しかし、当時の登山道は笹が生い茂り、豪雨の後で沢が増水しているなど、荒れた状態でした。夕闇が迫る中、ようやく安比温泉にたどり着いた時には、彼の服はずぶ濡れで傷だらけになっていました。そして目にしたのは、客舎が完全に潰れ、屋根の骨組み（合掌）だけが残された痛ましい光景でした。そこで偶然にも、別のグループで焚き火をしていた大館中学校の生徒たちと再会し、彼らに身なりを笑われながらも、濡れた服を着たまま湯船に浸かったと記しています。この崩壊した建物こそ、かつて訪れた安比温泉深山荘でした。

1950年の資料でも「安比川の上流、河岸近くに湧出する硫黄泉で往時の施設は今は破壊して宿舎はない」と記されており、「復旧が望まれる」状態であったことがうかがえます。

地域による観光開発の試みもありました。1961年から1962年にかけ、当時の安代町が町費45万円を投じてボーリングを実施。45℃の温泉が湧出し、利用への期待が寄せられましたが、残念ながら本格的な実用化には至りませんでした。

かつて1932年に開業し、茶臼岳の中腹にあった安比鉱山によって管理されていた安比温泉は、鉱山閉鎖に伴い放置され、人々の記憶から薄れていきました。しかし、この「幻の温泉」の存在を知った安比高原のペンションオーナーたちが、1986年にその復元作業に着手。現在も毎年、湯船に溜まった土砂を取り除くなど、有志によって手入れが続けられています。メディアでも取り上げられることがあり、旅番組『野天湯へGo!』では山田べにこがこの野湯を訪れています。

リゾート温泉街

一方、安比高原スキー場の麓には、スキーリゾートの開発に合わせて整備された温泉街が広がっています。こちらには日帰り入浴施設として「APPI温泉パティオ」と「あずみの湯」が存在します。特にあずみの湯は1993年12月22日に町営施設として開業し、多くの利用者に親しまれています。しかし、これらはリゾート施設の一部として開発された経緯から、古くからの温泉街に見られるような独特の風情はあまり感じられないかもしれません。

アクセス

温泉街へのアクセスは比較的容易です。JR花輪線安比高原駅から車でおよそ5分です。

山中の野湯を目指す場合は、ある程度の準備と覚悟が必要です。まず、安比高原駅から車で約11分の場所にある安比高原ブナ林「ぶなの駅」まで移動します。そこから赤川林道を奥へ進み、林道終点から先は安比歩道（登山道）に入ります。登山道は約3km、標準的な所要時間は45分程度（標高差約120m）です。安比岳・茶臼岳コースの分岐点からは安比温泉方面へ直進します。道中には、水深は浅いものの沢を渡る箇所があるため、注意が必要です。

このように、安比温泉は秘湯の趣を残す山中の野湯と、リゾート施設として賑わう温泉街という、対照的な二つの側面を持つユニークな温泉地と言えるでしょう。

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