安部ヨリミ

小説家、劇作家として著名な安部公房（あべ こうぼう）の母、安部ヨリミ（あべ ヨリミ、1899-1990）は、自身もまた文学の世界に足跡を残した人物である。戸籍上の名はヨリミであったが、時には安部よりみ、安部頼実とも表記された。

生涯

ヨリミは結婚前の姓を井村といい、1899年7月25日、北海道上川郡東鷹栖村（現在の旭川市東鷹栖）に生まれた。両親である井村亀蔵とサクは徳島県からの入植者で、ヨリミは3人姉弟（姉のハルメ、ヨリミ、弟の効〈まなぶ〉）の真ん中にあたる。

旭川高等女学校を経て東京女子師範学校（現お茶の水女子大学）の国文学科に進んだヨリミは、在学中に日本の初期社会主義婦人団体である赤瀾会（1921年4月結成）の思想に感化された。彼女は赤瀾会の講演会告知ビラを学内の掲示板に貼ったことが原因となり、退学処分を受けることとなった。

1922年、ヨリミは同郷で1歳年上の安部浅吉と結婚した。浅吉は医者を志して南満医学堂（後の満州医科大学）に入学し、卒業後は大学付属の奉天医院小児科に勤務しながら栄養学を専門に研究していた。二人の出会いは、浅吉が東京の国立栄養研究所へ出向していた時期であった。公房の娘である安部ねりは、著書『安部公房伝』（2011年）の中で、ヨリミが浅吉の東京での住居に押しかけたという安部家に伝わる話を紹介しつつも、実際の二人は深く愛し合っていたのだろうと推察している。

井村家と安部家はともに東鷹栖村の初期入植者であり、井村家の方が早く入植していた。1923年1月6日から7日にかけて、二人は故郷の東鷹栖村で結婚披露宴を行った。

浅吉は披露宴のわずか数日後、同月11日に単身で奉天へ戻った。ヨリミを同行させたい思いはあったものの、長距離移動の困難さや、まだ浅吉が学校を出たばかりで実家の経済的援助を受けていたことなどから、断念せざるを得なかった。

当初、浅吉は3月には戻る予定だったが、勤務先の都合で延期され、5月に東京の国立栄養研究所への出向が決まった。二人は東京府北豊島郡滝野川町西ヶ原（現東京都北区西ヶ原）に家を借り、安部家からの仕送り100円と南満州鉄道からの研究費100円、合わせて月収200円で生計を立てた。当時の教員の初任給が約40円、家賃が21円という時代にあって、二人の収入は決して少なくなかった。しかし、ともに浪費癖があったため、魚や味噌も買えないほど困窮することもあった。

やがてヨリミは初めての子（後の安部公房）を身ごもった。つわりに加え体調不良に苦しむヨリミのため、浅吉はしばしば研究所を休んで家事に励んだ。しかし、浅吉の両親はこれを快く思わず、二人の状況を知ったヨリミの父・亀蔵が度々手紙で忠告していたという。

浪費家の二人の生活を大きく変えたのは、同年9月1日の関東大震災だった。浅吉とヨリミは無事だったが、ヨリミは地面が1メートルも左右に揺れる中で立つことさえできず、かえって大笑いしてしまったという。

震災発生後の9月5日には、北海道から亀蔵が安部勝三郎（浅吉の父）とともに二人の安否を案じて上京した。生きている二人の姿を見て祝杯を挙げたというこの出来事に、二人は運命的なものを痛感し、生活態度を改めた。その結果、月収200円の中から貯金もできるようになっていった。

ヨリミは同年10月10日から、後の長編小説『スフィンクスは笑う』の執筆を開始した。400字詰め原稿用紙400枚を超えるこの作品は11月末に書き上がり、12月には出版社に渡された。『スフィンクスは笑う』は翌1924年3月20日付で、異端社より刊行された。異端社はヨリミが会員だった芸術総合雑誌『異端』の発行元であり、『スフィンクスは笑う』は同社の初の単行本となった。

小説出版直前の同年3月7日、長男の公房が誕生した。その後、浅吉とヨリミの間には春光（1927-2014）、洋子（1931-1938）、康子（1937年生）が生まれた。

1925年、浅吉が満州医科大学助教授・栄養部主任に就任したのに伴い、一家は満州へ渡り、奉天市の日本人居住区にある満鉄甲社宅に住まいを定めた。ここで1927年に次男の春光が誕生した。

公房は1930年4月、満州教育専門学校付属小学校（後の奉天千代田小学校）に入学した。ヨリミは教育熱心で、特に公房にはつきっきりで勉強を教えた。しかし、ヨリミは公房たちに文学書を読むことを禁じていた。これに対し、公房の担任となった宮武城吉は本の多読を勧め、議論や執筆を奨励した。この担任の影響が、後の作家安部公房の素地を形成することになった。

浅吉は論文「患者食研究」により、1930年8月11日付で京都帝国大学から医学博士の学位を授与された。さらに同年11月には在外研究員を命じられ、1932年7月までアメリカ、ドイツ、ハンガリーなどに留学した。

当時妊娠中だったヨリミは、公房と春光を連れて東鷹栖の井村家へ身を寄せた。公房は東鷹栖近文第一小学校に転校した。東鷹栖滞在中の1931年に長女の洋子が生まれた。翌1932年、井村家で唯一の男子であったヨリミの弟・効が結核で亡くなったため、当時4歳だった春光は井村家の養子に入ることになった。

浅吉の留学が終了すると、ヨリミ、公房、洋子は奉天へ戻り、公房は再び満州教育専門学校付属小学校へ転入した。一家は毎年夏休みには東鷹栖へ帰省することを恒例としていた。公房が小学校4年生のとき、後に親友となる金山時夫と出会ったが、これはヨリミがお膳立てしたもので、彼女が金山家を訪ねて公房と友達になってくれるよう頼んだのがきっかけだった。

1936年4月、公房は新設の奉天第二中学校に進学した。この頃、井村家の養子に入っていた春光が、ヨリミの父・亀蔵の死（享年74歳）を機に奉天の安部家へ戻っている。

1937年に末子の康子が誕生したが、翌1938年の夏には三女の洋子が急逝した。7歳頃（没年齢には異説あり）だった洋子は利発で家族に可愛がられていたが、魚売りの氷を食べたことが原因で食中毒を起こし、一日で亡くなったという。

1940年4月、公房は単身で東京の成城高等学校理科乙類（ドイツ語）へ進学した。1942年4月には浅吉が奉天市内で安部内科医院を開業。1944年12月には東京帝国大学医学部に進学していた公房が友人金山とともに奉天に戻り、一時的に一家そろっての生活が始まった。

1945年、日本は第二次世界大戦に敗れ、ソ連軍が満州に侵攻した。ソ連軍兵士の暴行や掠奪に加え、中国人暴徒も武装化して加わり、奉天は極度の混乱に陥った。秋には八路軍も進駐した。同年10月から翌春にかけて、奉天では発疹チフスが大流行した。安部家も全員が感染し、12月21日には当時47歳の浅吉が死去した。

浅吉の死後、ソ連軍から24時間以内の退去命令があり、一家4人は公房の友人宅を転々としながら過ごした。

翌1946年9月初め、一家4人は日本への引き揚げを決行し、葫蘆島から佐世保行きの船に乗った。佐世保からは列車で旭川を目指し、11月2日に到着した。旭川で一家はヨリミの実家である井村家に身を寄せたが、公房だけは大学の籍が残っていることが分かり、東京での生活を選んだ。

旭川でヨリミは厳しい生活に直面した。実家の井村家も婚家の安部家もかつては大地主だったが、戦後の農地解放でほとんどの土地を失っていた。幸いにも、両家の元小作人たちはヨリミの境遇に同情し、何かと世話をしてくれた。

ヨリミは公房と春光に学費を送るため、未経験だった農作業に懸命に取り組んだ。米や野菜を作り、ヒツジ、ニワトリ、アヒル、ウサギなども飼育した。教員免許を持っていたため、近隣の学校から教員の誘いもあったが、ヨリミは「学校の先生では二人の息子を医者にはできない」と断ったという。息子たちを医者にしたいという強い願いがそこにはあった。

公房はほとんど旭川に戻らなかった。翌1947年、公房は山田真知子（後の安部真知）と結婚し、後に二人で旭川を訪れた。この時、春光も旭川に戻っており、久しぶりに家族揃っての団欒を過ごすことができた。

公房の妹・福井康子によると、ヨリミは戦争など多くの苦労を経験したからこそ、公房と春光を医師にすることを強く願っていたという。当時の公房は、医師ではなく小説家になる意思を家族には伝えていなかったとされる。木村陽子（2015年）は、ヨリミと公房に関する赤松和子の証言を紹介している。

しかし、ヨリミの思いとは裏腹に、公房と春光は急速に文学の世界へと傾倒していった。春光自身の証言によれば、彼も札幌医科大学に進学する頃までは文学を志し、同人誌に詩を寄稿するなど活動していた。しかし、公房から「お前には才能がない。小説家には俺がなるから、お前は父母の意思を継いで医者になれ」と諭され、文学の道を断念した。

公房が小説家として歩む進路を定めて以降、ヨリミがそれについて「ごちゃごちゃ言う」ことは一切なかった。1956年4月、公房が東京の野方（中野区）に転居したのを機に、ヨリミと康子を北海道から呼び寄せ、同居を開始した。公房は原稿が完成すると、まずヨリミに「読んで」と送っていた。ヨリミが公房宅で同居していた時期はもちろん、その後康子の結婚に伴い一緒に埼玉県へ転居した後も、1973年刊行の『箱男』の頃まで、『砂の女』や『他人の顔』など、公房の代表作を含む多くの原稿がヨリミに送られ続けた。康子は「私も一緒に読むのですが、『変な失敗作だったらどうしよう…』と思いながら、いつもドキドキしながら読んでいました」と回想している。また、公房の娘ねりが著書で紹介した、ヨリミが初期作品について「見せなさい、直してあげる」と言ったというエピソードについて、康子は「それは間違いで、母が添削するなどということは全くなく、そこまで出しゃばる人ではなかったです」と明確に否定している。

ヨリミは公房に先立ち、1990年7月28日に康子の家で死去した。公房は実子であるねりの結婚式にも出席しないほど冠婚葬祭を嫌っていたが、この時期はすでに体調が優れず、ヨリミの葬儀に出席することはできなかった。ヨリミ自身は生前、康子の家から密葬に近い形で葬儀を出してほしいと希望しており、公房もそれに同意していた。しかし、最終的には世間体などを考慮した公房の妻・真知の意向に従い、出版社などにも知らされることとなった。

著作と文学的関心

既に述べたように、ヨリミは公房の誕生時期に生涯で唯一の長編小説『スフィンクスは笑う』を書き上げた。公房の小学校時代の担任である宮武城吉は、ヨリミが発表した作品は3編だったと述べている。

木村陽子（前掲書）は、単行本として出版された『スフィンクスは笑う』（1924年3月、異端社刊）と、改題版である『光に背く』（1925年3月、洪文社刊）を確認している。鳥羽耕史（2024年）は、満鉄社員会の機関紙『協和』（1929年6月15日号）に「太郎さんと鼻」という童話が掲載されていたことを雑誌記事索引で確認しているものの、その内容までは確認できなかったとしている。一方、倉地智哉（2025年）はその童話の内容を紹介した上で、1924年7月1日締切の『女性改造』第1回懸賞短篇小説に応募された「吹雪」という小説についても言及している。

『スフィンクスは笑う』が出版される際、読売新聞（1924年4月2日付、婦人欄）に彼女の記事が写真付きで大きく掲載された。この記事は、学生時代の赤瀾会ビラ事件に触れつつ、「夫を了解するよき家庭の妻となったと同時に、文芸、社会運動に対する研究の手を少しもゆるめなかった。そうしてその中から若き血のもえたぎった男女の戦いを描いた『スフィンクスは笑う』が生れたのである。」と評している。

翌1925年、『スフィンクスは笑う』は『光に背く』と改題されて洪文社から刊行された（安部頼実名義）。同年4月11日の読売新聞は、ヨリミの近況と人柄を紹介し、「近く満州の方へ行かれることになっている、そして又異郷の地に変わった題材のものを書いて来たいと頼実さん自身も云っていた」と報じている。

公房の娘である安部ねりは、著書『安部公房伝』の中で『スフィンクスは笑う』のあらすじを紹介している。

『スフィンクスは笑う』は2012年に講談社文芸文庫から再刊され、その資料的価値と文学性が改めて注目を浴びた。文芸評論家の三浦雅士は、この本を安部ねりに紹介されたのが読むきっかけだったという。当初、公房の母の作品として資料的な興味から読み始めた三浦は、小説半ばでこれが「本格的な小説であり、作品としてもきわめて優れている」と感じた。読了後、講談社文芸文庫編集部に連絡し、再刊が実現。三浦自身が解説を執筆した。

三浦は解説で「初めて読んだときには驚嘆した。（中略）これまで文壇で、あるいは文学史において、まったく無視されてきたことが信じられなかった」と記し、「日本近代文学史を急行列車で走ってでもいるような気分にさせるその文体の微妙な変容が、小説の必然、言語の必然を生きる作者というものを思わせずにはおかないのである。（中略）読み直して、これはやはり名作だとあらためて思った」と絶賛している。坪内祐三（2012年）も講談社文芸文庫の近刊案内でこの作品を知り、「きわめて質の高い大正文学」として、特に会話文や描写の巧みさを称賛している。宮西忠正（2009年）は、この作品を「小説化を密かに志していたヨリミが、単調な妻としての生活の中で、作家であることの憧れと怖れをもって書かれた作品」と評し、ロシア文学や有島武郎への傾倒を指摘している。

木村陽子が指摘するように、ヨリミは満州に移住した後も創作を続ける意思を持っていたとされる。三浦もまた、「仮に浅吉・ヨリミ夫妻が東京に留まっていたならば、ヨリミが小説家の道を歩むことも大いにありえただろう」と述べ、さらに「物語作家としてはヨリミのほうが公房より上だったと思える」とまで評している。

しかし、満州に渡った後のヨリミは小説を一切発表せず、かつて小説家であったことを子供たちにさえ明かさなかった。公房の妹・康子は、ヨリミが「むしろ国文科になど進学せず、医学部に行って医者になればよかった」とよく口にしていたと証言している。晩年、ヨリミは短歌を創作し、1970年代から80年代にかけては『短歌研究』や『短歌』といった主要な歌誌の常連投稿者となったものの、歌人として名を上げることはなかった。

人物と家族関係

戸籍上の名はカタカナのヨリミであったが、晩年の習字では「頼実」という字を好んで用いていたと娘の康子は語る。康子によれば、ヨリミは非常に小柄で、公房と春光が大学を卒業する頃には体調を崩し始めていた。ヨリミはしばしば生活苦を訴える手紙を公房に送り、公房はそれに応じて仕送りをしていた。孫のねりは、ヨリミの手紙の文才ゆえに、同居後に北海道での暮らしが想像していたより恵まれていたことを知り、それまで苦労して仕送りをしていた自分と母（真知）との間に距離感が生じたと指摘している。それでもヨリミは孫のねりを可愛がり、幼いねりに様々な頼み事をして役割を与えていた。ねりはヨリミを「その気になれば子供を支えることが上手な人だった」と評し、ヨリミと公房が亡くなった三女・洋子の面影を自分に見ていたのではないかと回顧している。また、実母の真知がねりに厳しく接するのに対し、公房とヨリミが怒った姿を見たことがないとも記している。

康子によると、ヨリミとは常に一緒にいたため、奉天時代の思い出話を特別にすることはなかったという。ただ、大の映画好きだった夫・浅吉が映画に誘っても、ヨリミは面倒くさがって三回に二回ほどしか付き合わなかった。後年、ヨリミはそのことを悔やみ、「あんなに早く亡くなっちゃうんなら、全部付き合ってあげればよかった」と話していたという。

康子の夫もまたヨリミを大切にしていた。ヨリミがどこかへ行きたいと少しでも口にすると、「じゃあ、次の休みに行こう」とすぐにその希望を叶えようとした。康子自身もヨリミを深く尊敬しており、「家族の中で誰か一人だけ助けられるとしたら迷わず母（ヨリミ）を選ぶ」と述べている。

康子から見た公房は、家族に優しい言葉をかけたり、大切にしていると直接的に示すタイプではなかった。それでも公房はヨリミを非常に尊敬しており、言葉なくとも心が通じ合うような強い絆で結ばれていたという。晩年、公房は小説の執筆に極度の困難を感じていた。康子は、ヨリミが「もうお兄ちゃま（公房のこと）、こんな苦労しなくていいよ、一緒に天国に行きましょう」と連れて行ったのではないか、とその死因を推察している。

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