岩窟の聖母

レオナルド・ダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」

概要

「岩窟の聖母」（伊: Vergine delle Rocce）は、盛期ルネサンスを代表する芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた油彩の絵画です。ほぼ同じ構図、構成で描かれた2点の作品が存在し、それぞれパリのルーヴル美術館（ルーヴル・ヴァージョン）とロンドンのナショナル・ギャラリー（ロンドン・ヴァージョン）に所蔵されています。どちらも高さ約2メートルという大きな作品で、もともとは板絵でしたが、ルーヴル・ヴァージョンは後にキャンバスへ移植されました。

両作品には、聖母マリア、幼児キリスト、幼い洗礼者ヨハネ、そして天使が岩窟を背景として描かれています。構成上の大きな違いは、画面右側の天使の視線と右手の位置です。その他にも、色使い、明るさ、植物、スフマート（ぼかし技法）の使い方などに細かな差異が見られます。制作依頼年度は記録に残っているものの、その後の来歴は不明な点が多く、どちらのヴァージョンが先に描かれたのかについても、美術史家の間で議論が続いています。

また、祭壇画として制作された「岩窟の聖母」の両横には、楽器を奏でる天使を描いた2点の作品が飾られていました。これらはレオナルドの協力者によって制作され、現在はナショナル・ギャラリーに所蔵されています。

各作品の詳細

ルーヴル・ヴァージョン

ルーヴル美術館が所蔵する「岩窟の聖母」は、多くの美術史家から初期の作品とみなされており、レオナルドが1483年から1486年頃に一人で制作したと考えられています。ロンドン・ヴァージョンよりも縦に約8cm長く、1625年にはフランス王室コレクションに収められていたという記録が残っています。この作品は、1483年にミラノで制作依頼を受けたものの、何らかの理由でレオナルドが密かに別人に売却し、後にロンドン・ヴァージョンを描き直してミラノに納めたという説があります。また、スフマートという技法を完璧に例示する作品としても知られています。

ロンドン・ヴァージョン

ロンドンのナショナル・ギャラリーには、1508年以前に描かれたとされる、ルーヴル・ヴァージョンに酷似した「岩窟の聖母」があります。かつてはレオナルドの弟子が描いた箇所もあると考えられていましたが、修復作業の結果、ほとんどがレオナルドの手によるものであると発表されました。この作品は、ミラノのサン・フランチェスコ・グランデ教会にある聖母無原罪の御宿り信心会の礼拝堂の祭壇画として描かれました。1781年頃に教会から売りに出され、複数の収集家の手を経て、1880年にナショナル・ギャラリーが購入しました。

天使のサイドパネル

ロンドン・ヴァージョンの「岩窟の聖母」は、楽器を奏でる天使が描かれた2枚のパネルと共に祭壇画として飾られていました。この2枚の天使の絵画は、1490年から1495年の間に完成したとされています。赤い服の天使はレオナルドの協力者アンブロージオ・デ・プレディスの作品で、緑の服の天使はレオナルドの弟子フランチェスコ・ナポレターノの作品だと考えられています。

来歴

無原罪の御宿り礼拝堂

「岩窟の聖母」は、ミラノのサン・フランチェスコ・グランデ教会付属の無原罪の御宿り礼拝堂に飾られていました。この礼拝堂は、1335年以前にミラノ公妃ベアトリーチェ・デステの寄付によって建てられたとされています。1479年に、礼拝堂のヴォールト装飾の契約が結ばれ、1480年には祭壇制作の契約がジャコモ・デル・マイーノとの間に結ばれました。この祭壇は、祭壇画を飾るためのスペースを設けた木製の祭壇でした。

祭壇画の制作依頼

1483年4月25日、レオナルドとアンブロージオ、エヴァンジェリスタのデ・プレディス兄弟は、礼拝堂の祭壇画制作を依頼されました。契約書には、レオナルドが「マスター（親方）」、アンブロージオが「画家」として記されており、エヴァンジェリスタは金箔師と顔料の調合を担当することになっていました。契約では、中央パネルに聖母マリア、幼児キリスト、預言者、天使たちを描くこと、祭壇画上部のルネット部分には父なる神、聖母マリア、馬小屋のレリーフを配すること、両横に歌う天使と楽器を奏でる天使のパネルを置くことが定められました。納品日は1483年12月8日とされていました。

制作代金

1483年5月1日に手付金が支払われ、その後、1485年2月まで毎月40リラが支払われました。しかし、最終支払いは作品完成と引き換えとされていました。1490年から1495年にかけて、レオナルドとアンブロージオは、中央パネルの代金だけでは足りないとして追加の支払いを要求しましたが、教会側は一部の支払いしか認めませんでした。この問題は、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの仲裁によって専門家による評価が行われ、作品の価値が支払われた価格よりも高いと判断されました。1503年にアンブロージオは、再度支払い要求の訴えを起こしましたが、最終的には1506年4月27日に祭壇画の価値が再評価され、未完成と判定されました。そして、1508年8月18日にようやく「岩窟の聖母」が礼拝堂に納入されました。

1524年から2011年

ナショナル・ギャラリーの「岩窟の聖母」

ロンドン・ヴァージョンは、1524年と1576年にペストの罹患を防ぐために信仰の対象とされたことがあります。しかし、礼拝堂が取り壊されることとなり、1576年に運び出されました。その後、1785年頃に画商ギャヴィン・ハミルトンが購入し、複数の収集家の手を経て、1880年にナショナル・ギャラリーが購入しました。2005年6月に赤外線リフレクトグラムで調査した結果、当初は「幼児キリストへの礼拝」を主題として描こうとしていたことが判明しました。2009年と2010年には、洗浄と保存作業が行われ、作品の大部分がレオナルドによって描かれたことが確認され、2010年末にレオナルドの真作であると公式発表されました。

ルーヴル美術館の「岩窟の聖母」

ルーヴル・ヴァージョンは、1625年にフォンテーヌブロー宮殿で目撃された記録が残っています。1806年にキャンバスへ移植され、2011年と2012年には、ナショナル・ギャラリー所蔵の「岩窟の聖母」と同時に展示されました。

横パネル

楽器を演奏する天使が描かれた2枚のパネルは、1898年にナショナル・ギャラリーが購入しました。

モチーフ

無原罪の御宿り

祭壇画の主題は、聖母マリアの処女懐胎の秘蹟である無原罪の御宿りに近いものだと考えられています。無原罪の御宿りとは、マリアが原罪から解き放たれているという信仰であり、15世紀にはフランシスコ修道会を中心に盛んになりました。「岩窟の聖母」の当初の納品日が12月8日だったのは、無原罪の御宿りの祝日であったためです。

主題

両ヴァージョンともに、幼児キリストへの洗礼者ヨハネの礼拝を主題としています。このエピソードは聖書には記されていませんが、『マタイによる福音書』に記された聖家族のエジプトへの逃避に関連するテーマとなっています。ルーヴル美術館では、描かれている天使は大天使ガブリエルであるとしています。この主題は、ルネサンス期のフィレンツェ美術でよく見られるもので、フィリッポ・リッピ、ラファエロ、ミケランジェロらも同様のテーマで作品を制作しています。

外観

構成

ロンドン・ヴァージョンとルーヴル・ヴァージョンは、同じ主題が描かれており、全体の構成も同一です。人物たちは三角形を構成するように配置されており、マリアが頂点に位置し、ヨハネはひざまずき、キリストは天使に支えられています。しかし、詳細な表現、色使い、光の表現、顔料の使用技法には差異が見られます。

両作品の差異

ロンドン・ヴァージョンの方が人物がやや大きく描かれており、構成上の大きな違いは、画面右側の天使の描写です。ロンドン・ヴァージョンでは天使の右手が膝に置かれているのに対し、ルーヴル・ヴァージョンではヨハネを指差しています。また、天使の視線も異なり、ロンドン・ヴァージョンは穏やかに伏せられているのに対し、ルーヴル・ヴァージョンは鑑賞者の方を向いているように見えます。全体的にロンドン・ヴァージョンの方が外形が明確に描かれ、背景の岩場も詳細に描かれています。一方、ルーヴル・ヴァージョンはスフマート技法を多用し、繊細でぼやけた表現になっています。色使いにも違いがあり、ルーヴル・ヴァージョンは温かみがあり、天使のローブも鮮やかな赤と緑色が使用されています。ロンドン・ヴァージョンには、円光や十字架といった聖人のエンブレムが描かれていますが、ルーヴル・ヴァージョンには描かれていません。また、植物の描写も異なり、ルーヴル・ヴァージョンは写実的に、ロンドン・ヴァージョンは空想的な植物が描かれています。

楽器を演奏する天使

ナショナル・ギャラリーには、「岩窟の聖母」と共に飾られていた2枚のパネルが所蔵されています。描かれているのは、ヴィオラを演奏する緑色の衣装の天使と、リュートを演奏する赤色の衣装の天使です。赤い衣装の天使はアンブロージオ・デ・プレディスが描いたものと考えられ、緑色の衣装の天使の作者は不明ですが、フランチェスコ・ナポレターノではないかとされています。どちらの天使も灰色の壁龕の中に描かれています。

解釈

制作年度

ほとんどの美術史家がルーヴル・ヴァージョンの制作年度の方が古いと考えています。ナショナル・ギャラリーの館長だったマーティン・デーヴィスは、ルーヴル・ヴァージョンはレオナルドの初期の作品で、ロンドン・ヴァージョンは後期の作品だと結論付けています。しかし、ルーヴル・ヴァージョンが聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼前に制作されていたとする説も存在します。一方、タムシン・テイラーは、ロンドン・ヴァージョンの方が古く、ルーヴル・ヴァージョンは『最後の晩餐』や『聖アンナと聖母子』と共通点が多いと指摘しています。

作者

ルーヴル・ヴァージョンは間違いなくレオナルドの真作だとされていますが、ロンドン・ヴァージョンは以前は弟子が仕上げたと考えられていました。しかし、2009年と2010年の洗浄保存処置の結果、ロンドン・ヴァージョンも大部分がレオナルド自身によって描かれたことが判明しました。地質学者アン・C・ピッツォルッソは、ロンドン・ヴァージョンには地質学上の誤りがあると指摘していましたが、タムシン・テイラーはこれを否定しています。

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