工楽松右衛門

江戸時代後期に活躍した工楽松右衛門（くらく まつえもん、1743-1812年）は、革新的な発明と大胆な事業展開で、日本の海運に大きな変革をもたらした実業家であり発明家です。現在の兵庫県高砂市に生まれた彼は、後に兵庫（現在の神戸市兵庫区）で廻船業を営む傍ら、画期的な帆布「松右衛門帆」を開発し、さらに高度な築港技術を用いて択捉島や箱館（現在の函館）に重要な港湾施設を築きました。

松右衛門は、寛保3年（1743年）、播州高砂（現・兵庫県高砂市）の漁師の家庭に長男として生まれました。幼い頃から家業を手伝い、漁労に従事する中で、持ち前の創意工夫の才能を発揮していたと伝えられています。やがて若くして帆船の操縦技術などを習得し、多くの航海経験を積み重ねていきました。宝暦8年（1758年）頃に兵庫へ渡り、「御影屋」という船主のもとで船乗りとしての腕を磨いた後、廻船問屋の北風荘右衛門の援助を得て独立。佐比絵町に店を構え、船持ち船頭として自らの廻船業を始めました。

当時、和船の帆は、むしろや薄手の綿布を重ね合わせたものが主流で、強度が十分ではなく、破れやすいという問題を抱えていました。この状況に不満を抱いた松右衛門は、より丈夫な帆布の開発に着手します。播州地方の特産品であった太く良質な木綿糸に着目し、これを用いて厚手で幅の広い平織りの帆布を織り上げることに成功しました。これが天明5年（1785年）、彼が42歳（数え43歳）の時の出来事です。「松右衛門帆」と名付けられたこの新しい帆布は、瞬く間に全国の船乗りの間で評判となり普及しました。特に北前船のような大型の和船に採用されたことで、航海の安全性と効率が飛躍的に向上し、日本の海運業の発展に大きく貢献しました。1812年に出版された造船技術書「今西氏家舶縄墨記」には、「松右衛門帆というのは、太い糸を縦横それぞれ二筋ずつ引き揃えて織った帆である」と記されており、その独特の織り方によって強度が保たれていたことがうかがえます。

松右衛門の技術力と実行力は幕府の知るところとなり、寛政2年（1790年）2月には、蝦夷地（現在の北海道）の択捉島に船着き場を建設するよう命じられました。これは、南下を進めるロシア帝国に対する国防上の要衝としての重要性が増していた択捉島の領土保全を目的としたものでした。同年5月には準備を整えて出航し、厳寒の過酷な環境での困難な作業を経て、翌寛政3年（1791年）10月には見事に埠頭を完成させました。この港は、後に高田屋嘉兵衛が蝦夷地と上方とを結ぶ航路の重要な寄港地となります。さらに、文化元年（1804年）には、箱館（現・函館）に船舶を修理するためのドックを築造するなど、国家的事業においてもその手腕を発揮しました。後に、択捉島開発や蝦夷地交易の拠点として活用した箱館の土地を高田屋嘉兵衛に譲っています。

「工事や工夫を楽しむ」という意味を込めて幕府から「工楽」の姓を授与されたのは、享和2年（1802年）のことです。これは、彼の多岐にわたる功績が公的に認められた証と言えます。65歳頃には故郷である高砂に戻り、箱館でのドック建設事業に関わったほか、石鈴船や石救巻き上げ装置といった新たな装置の発明、防波堤工事など、晩年も精力的に活動を続けました。

文化9年（1812年）、70歳でその生涯を閉じました。墓所は高砂市高砂町の十輪寺にあります。神戸市兵庫区の八王寺には彼の顕彰碑が建てられていますが、「苦楽松右衛門」と誤って彫られている点が不思議なエピソードとして残っています。彼の功績を称える銅像は、高砂神社の境内に建てられています。この銅像は、明治13年（1880年）に明治天皇が神戸を巡幸された際に松右衛門の業績を称えられたこと、そして大正4年（1915年）に大正天皇の即位の礼に合わせて従五位に叙せられたことを記念して、1915年に一度建立されました。しかし、第二次世界大戦中に金属供出のため姿を消しましたが、戦後、帆布業界などからの浄財により、昭和41年（1966年）に元の場所に復元されました。

松右衛門は、単なる技術者や実業家にとどまらず、明確な信念を持っていました。彼の言葉として、「人として世の中のためになることを考えず、ただ漠然と一生を過ごすのは、鳥や獣にも劣る」という趣旨の言葉が伝えられています（大蔵永常著『農具便利論』より）。この言葉は、彼の生涯にわたる創造的で社会貢献に満ちた活動の根源を示すものです。また、新巻鮭（荒巻鮭）を考案したという説もあります。

工楽松右衛門は、革新的な技術と不屈の精神で、江戸時代の海運と国家的な開発事業を支えた偉大な人物です。「松右衛門帆」は当時の航海術を飛躍的に進歩させ、択捉島や箱館の築港は日本の北方における安全保障や経済活動の基盤となりました。彼の業績は、現代にもその名を刻んでいます。

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