弓浦市

川端康成『弓浦市』：虚実のあわいを漂う怪異譚

川端康成の短編小説『弓浦市』は、一人の老小説家のもとに突然訪れた女性との出会いから展開される、ミステリアスで幻想的な物語です。読者は、現実と虚構の境界が曖昧になるような、奇妙な体験へと引き込まれていきます。

あらすじ：記憶の迷宮

物語は、小説家・香住庄介の元に、見知らぬ婦人が訪ねてくる場面から始まります。婦人は30年前、九州の「弓浦市」という町で香住と出会い、求婚されたと告げます。しかし、香住には全く身に覚えがありませんでした。当時24、5歳だった香住は、婦人が20歳だった頃に会った記憶も、彼女の部屋を訪ねた記憶もありません。

婦人は、美しい夕焼けが弓形の港に映える情景や、彼女の髪型、部屋の様子などを詳細に語り、香住の記憶を呼び起こそうとします。しかし、香住は自身の記憶力の衰えを感じながらも、婦人の語る情景を思い出せずにいました。婦人は、香住に求婚を断った理由や、当時妊娠していたこと、その子供たちが香住のことを知っていることなどを語り、香住は混乱していきます。

婦人が帰宅した後、香住は同席していた客たちと共に日本地図で「弓浦市」を探しますが、そのような町は実在しませんでした。香住は、自身の過去の記憶を辿りますが、戦争中に海軍の報道班員として特攻隊基地に行ったことや、長崎の原爆の跡を見た記憶しかなく、婦人の話が現実なのか妄想なのか判断がつかなくなります。香住は、婦人の語る過去が真実である可能性を否定できず、自身の記憶の曖昧さに不安を感じ始めます。そして、自分の中に存在しない過去が、他人の記憶の中では現実となりうることに気づき、戸惑うのです。

作品の背景と作風

川端康成は、「新感覚派」と呼ばれた時代から心霊学に関心を抱いており、フランスの心霊学者カミーユ・フラマリオンの著書を愛読していました。その影響は、初期の心霊小説『白い満月』、『抒情歌』などにも見られます。『弓浦市』は、晩年の作品群に位置づけられ、心霊と性愛というモチーフを基調とした怪談嗜好が色濃く反映されています。川端の作品に共通する「幽玄」や「妖美」な要素も随所に見られ、独特の世界観を形成しています。

作品の評価

中河与一は、川端がフラマリオンの心霊学の書を愛読していたことに触れ、その影響が『弓浦市』に表れていると指摘しています。

東雅夫は、川端が「心霊」と「性愛」というモチーフを生涯にわたり追い求め、「幽艶凄美を極める恋愛怪談」を数多く執筆したと評し、『弓浦市』を「幽玄なる怪異譚」と位置づけています。

長谷川泉は、『弓浦市』が川端の若き日の恋人である伊藤初代との思い出と、『伊豆の踊子』の思い出が融合した作品であると考察しています。

原善は、金井景子が「弓浦市」を実体のない「箱庭化された日本」と論じたことに対し、テクストという架空の時空間こそが問題であり、『弓浦市』は「記憶という形の虚構＝小説が、事実ではなくともリアリティを与えてしまう在りようを通して、小説の持つ意味を追求するメタ小説」であると論じています。

森本穫は、『弓浦市』が「狂気と隣り合わせた異様な世界」を読者に提示しており、読者も主人公と共に「虚と実のあわいの空間」に誘われていくと考察しています。婦人の語る過去が「妄想から描き出した夢」であると推測できるにもかかわらず、その真実らしいディテールによって、読者は次第に「あやしい時空に引き込まれてゆく」と述べています。

鈴村和成は、『弓浦市』を「見えない結婚」をアレゴリカルに描いた作品だと評し、婦人には見えるが、主人公には見えないという「見える、見えないの境目」に「弓浦市」が位置づけられると論考しています。

まとめ

『弓浦市』は、川端康成の晩年の作風を代表する傑作の一つです。現実と虚構、記憶と妄想の境界が曖昧になるような、幻想的な世界観が読者を魅了します。実在しない町「弓浦市」を舞台に、一人の女性の訪問をきっかけに、主人公の記憶の奥底に潜む「もう一つの空間」が浮かび上がってくる物語は、読者に深い思索を促します。心霊、性愛、記憶といったテーマを織り交ぜながら、人間の深層心理を描いたこの作品は、現代においても色褪せることのない文学的な魅力を放っています。

主な収録刊行本

『富士の初雪』（新潮社、1958年）
『再婚者・弓浦市』（講談社文芸文庫、1994年）
『川端康成集 片腕〈文豪怪談傑作選〉』（ちくま文庫、2006年）
『川端康成異相短篇集』（中公文庫、2022年）
『川端康成全集第11巻 みづうみ・眠れる美女』（新潮社、1969年）
『川端康成全集第8巻 小説8』（新潮社、1981年）

派生作品・オマージュ作品

海にゆらぐ糸（大庭みな子、1988年）
シナプスの入江（清水義範、1993年）
* 最高の任務（乗代雄介、2019年）

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