文書仮説

モーセ五書の成立：文書仮説とは？

モーセ五書（旧約聖書最初の五冊）は、単一著者モーセによって書かれたとする伝統的見解とは異なり、複数の独立した文書が後世の編集者によって編纂されたとする説が有力です。これを「文書仮説」と呼びます。この仮説は、聖書の内部矛盾を説明する試みから18～19世紀に生まれ、聖書研究に大きな影響を与えました。

仮説の核心：独立文書と編纂者

文書仮説は、モーセ五書が最初から現在のような一貫した形ではなかったと主張します。複数の独立した文書が、後世の編者によって統合され、現在の形になったというのです。これらの原典文書の数は仮説の本質ではなく、一般的には4つの文書が想定されています。

主要な四資料と成立年代

一般的に知られる4つの原資料は、それぞれ以下の通りです。

J資料（ヤハウィスト資料）： 紀元前950年頃、ユダ王国で成立。神名を「ヤハウェ」を用い、物語性に富んだ記述が特徴です。
E資料（エロヒスト資料）： 紀元前850年頃、北イスラエル王国で成立。「エロヒム」という神名を使用し、J資料よりやや簡素な表現です。
D資料（申命記史家資料）： 紀元前7世紀、ユダ王国の宗教改革期に成立。申命記を核とし、宗教改革の理念を反映した記述が見られます。
P資料（祭司資料）： 紀元前550年頃、バビロン捕囚後成立。詳細な祭儀規定や系図を特徴とし、厳格で形式的な記述がなされています。

これらの資料は、文体、神名、内容の重複などから区別されています。重要なのは、これらの資料が同一人物によって書かれたのではなく、異なる時代、異なる場所、異なる立場の人々によって書かれた可能性が高いということです。

文書仮説への道：先行研究

文書仮説の成立には、モーセ五書の著者に関する懐疑的な見解が長く存在しました。17世紀には、ホッブズやスピノザといった思想家たちが、モーセ五書に含まれる矛盾点を指摘し、モーセ単独の著作ではないと結論づけました。しかし、彼らの主張は当時の社会状況から弾圧を受けました。

1753年、アストリュクは「神名」と「重複記述」を手がかりに、創世記に少なくとも二つの異なる文書が含まれることを示唆しました。この分析方法は、後の研究者たちに大きな影響を与えました。その後、アイヒホルンやデ・ヴェッテといった学者たちの研究により、モーセ五書全体にわたる文書仮説が確立されていきました。特に、デ・ヴェッテは申命記が独立した資料であると主張しました。

ヴェルハウゼンとJEDP順序

19世紀後半、ヴェルハウゼンはこれらの先行研究を総合し、JEDPという資料成立年代順序を提唱しました。彼は、この順序に基づいて、古代イスラエルの宗教発展史を体系的に記述しました。ヴェルハウゼンのモデルは、20世紀半ばまで聖書研究において支配的なものとなりました。

文書仮説の検証と発展

ヴェルハウゼン以降も、文書仮説は様々な批判や修正を受けながら発展を続けています。新しいモデルや理論が提案されていますが、JEDPという枠組みは、依然として聖書研究における重要な概念として位置づけられています。

天地創造記述：二つの伝承

文書仮説は、創世記の天地創造記述にも適用されています。創世記1章と2章の記述には、文体や神名の違いから、祭司資料（P資料）とヤハウィスト資料（J資料）の二つの異なる伝承が組み合わされていると考えられています。

P資料： 全能の神エロヒムによる創造を、秩序正しく論理的な記述で描いています。
J資料： 神ヤハウェによる、より人間的な側面が強調された創造物語です。アダムとイブの創造、エデンの園など、私たちに馴染み深い物語がここに含まれています。

これらの記述の比較を通して、古代イスラエルにおける神観や宇宙観の多様性を読み解くことができます。

文書仮説の意義

文書仮説は、聖書を単なる神の言葉としてではなく、歴史的・文化的産物として理解するための重要な枠組みを提供しています。聖書テクストの多層的な構造を明らかにし、古代イスラエル社会の宗教や文化の変遷を理解する上で不可欠な視点となっています。ただし、文書仮説は聖書の権威を否定するものではなく、むしろ聖書のより深い理解へと導くものです。保守的な教会の一部ではこの仮説は受け入れられていませんが、聖書研究においては、重要な役割を果たしています。

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