春雨物語

『春雨物語』：上田秋成の多彩な世界

上田秋成による読本『春雨物語』（はるさめものがたり）は、1808年（文化5年）に成立した作品です。秋成の処女作である『諸道聴耳世間猿』が当時の実在の人物をモデルにした喜劇が多かったのに対し、『春雨物語』は悲劇、奇談、教訓的な物語など、より多様な内容を網羅しています。刊行されず、写本で伝えられてきたため、その成立過程にも興味深い点が見られます。

幾多の変遷を経た作品

『春雨物語』の存在が知られるようになったのは、富岡本と呼ばれる自筆巻子本の発見によるものです。しかし、この富岡本は「序」「血かたびら」「天津処女」「海賊」「目ひとつの神」「樊噲 上」の5編のみが残り、欠損していました。その後、1950年には漆山本が岩波書店から翻刻刊行されますが、これも「捨石丸」「樊噲」を欠いた状態でした。1951年、桜山文庫本の発見により、ついに10巻全編が明らかになり、さらに西荘文庫本も発見されました。これらの漆山本、桜山文庫本、西荘文庫本は書写年次から「文化5年本」と総称され、『春雨物語』の原型を示すものとされています。富岡本は、この文化5年本を秋成自身が改稿したものであると考えられています。

多彩な物語の数々

『春雨物語』には、「血かたびら」「天津処女」「海賊」「二世の縁」「目ひとつの神」「死首の咲顔」「捨石丸」「宮木が塚」「歌のほまれ」「樊噲」の十篇が収録されています。初期の『春雨草紙』には「妖尼公」「月の前」「剣の舞」「楠公雨夜かたり」「背振翁伝」なども含まれていたとされますが、これらは削除されたり、他の作品に転載されたりしました。収録されている物語の内容は、大きく分けて三つの種類に分類できます。一つ目は平安時代初期の史実を批評的に描いた歴史物語、二つ目は秋成独自の知的寓言が示された物語、三つ目は巷説を題材とした物語です。

各話の概要

それぞれの物語は、歴史的事件や伝説を基にしながらも、秋成独自の解釈や着想が加えられ、独特の世界観を構築しています。例えば、「血かたびら」は藤原仲成・薬子兄妹の悲劇、「天津処女」はその後日談的な物語です。「海賊」では、紀貫之を相手に、海賊が歌道や社会風刺を展開します。「二世の縁」は、即身仏となった僧の蘇生と、その後の奇妙な生活を描いた物語です。「目ひとつの神」は、歌の修行を志す若者が、不思議な宴に出くわす幻想的な物語です。「死首の咲顔」は、恋の悲劇と、人間の心の奥底にある複雑な感情を描写しています。「捨石丸」は青の洞門の逸話に似た物語、「宮木が塚」は遊女の悲恋物語です。「樊噲」は、盗賊の改心を描いた物語で、意外な結末が待っています。初期の『春雨草紙』に収録されていた物語は、歴史上の人物や事件を題材に、秋成の鋭い視点と独特の解釈が光る作品群でした。

秋成の思想と認識

『春雨物語』は、上田秋成晩年の思想と認識の到達点を示す作品と評価されています。歴史的事実と虚構、寓話的な要素を巧みに融合させ、極めて簡潔な文章で、深い意味と余韻を残す物語を紡ぎ出しています。歴史物語としての側面と、寓話としての側面を自由に往還することで、独特の文学世界を創造している点が大きな魅力です。

校訂本

『春雨物語』は、現在多くの校訂本が存在し、様々な形で読まれることが可能です。代表的なものとしては、『校註春雨物語』（浅野三平編、桜楓社）、『新編日本古典文学全集』、『古典文庫』、『新潮日本古典集成』などがあります。これらの校訂本を通じて、『春雨物語』の世界に触れることができます。

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