曽谷学川

曽谷学川（そだに がくせん）は、江戸時代中期の元文3年（1738年）に生まれ、寛政9年（1797年）に61歳で没した多才な人物です。本業は篆刻家として高名でしたが、醒狂道人 何必醇（すいきょうどうじん かひつじゅん）という戯号で出版した料理書『豆腐百珍』シリーズが空前のベストセラーとなり、その名が広く知られています。篆刻、食文化、出版など、さまざまな分野で活躍した文人です。

出自と篆刻の学び

京都で生まれた学川は、当時を代表する篆刻家である高芙蓉（こう ふよう）に師事しました。芙蓉から古体派の篆刻技法を深く学び、その作風は師と見分けがつかないほど酷似していたことから、「芙蓉の影子」と称されました。この時期に篆刻家としての揺るぎない基礎を築きました。彼の諱は当初「之唯（これただ）」でしたが、師である高芙蓉が中国風に「曽之唯（そう しい）」と改めたと伝えられています。字は応聖、号は学川の他に仏斎居士、曼陀羅居、読騒菴、通称は忠助から後に宇作に改めています。

大坂への移住と活動拠点

京都での活動後、何らかの理由で経済的に苦境に陥った学川は、出版業を営む星文堂の浅野弘篤（藤屋弥兵衛）の勧めを受け、商業都市である大坂へ移り住むことになります。大坂では、同じく篆刻家である西村孟清（にしむら もうせい）・子恭（しきょう）父子の庇護のもと、篆刻作品の制作・販売を生業としました。

文人ネットワークと知の探求

大坂に移った後も、学川は精力的に学び、人脈を広げます。儒学者・詩人である細合半斎（ほそあい はんさい）が主宰する学半塾に入門し、経学や詩文の素養を深めました。また、文人たちの交流組織である混沌詩社（こんとんししゃ）に参加し、盟主である片山北海（かたやま ほっかい）をはじめ、木村蒹葭堂（きむら けんかどう）、葛子琴（かつ しきん）といった大坂を代表する文人たちとの親交を深めました。特に、博物学者・文人として知られる木村蒹葭堂の邸宅には頻繁に出入りし、彼の出版事業を手伝う機会を得ました。この経験を通じて、中国から輸入された当時の最新書籍に触れることができ、自身の見識を大きく広げました。

多岐にわたる著作活動

曽谷学川の活動は篆刻に留まりませんでした。彼は篆刻に関する専門的な著作を数多く残しています。自らの印譜である『曼陀羅居印譜』や『学川印譜』のほか、篆刻の理論や用語に関する『印籍考』、『印語纂』、古い印を集めた『読騒菴古印彙』などを著しました。また、師・高芙蓉の『漢篆千字文』や『捃印補正』の増補にも携わっています。

しかし、彼の名を一般に広く知らしめたのは、醒狂道人何必醇の戯号で発表した異色の料理書でした。天明2年（1782年）に刊行された『豆腐百珍』は、豆腐を使った100種類の料理法を紹介し、その独創性と実用性から大評判となりました。翌年には続編も出版され、これらは当時の日本の食文化を知る上で極めて貴重な資料となっています。

さらに、京都の『平安人物史』にならった大坂の文化人・町人名鑑である『浪華郷友録（なにわきょうゆうろく）』を安永4年（1775年）に刊行しました。これは、大坂における人名録の先駆けとして重要な意味を持っています。詩文集『野史詠』などの著作もあり、その活動範囲の広さがうかがえます。

晩年と永眠

学川の晩年は不幸に見舞われました。幼くして長男を亡くし、その後、長女に迎えた養子、そしてその長女、孫までもが相次いで病没するという悲劇に見舞われます。家族を次々と失うという深い悲しみの中、学川自身もやがて病に倒れ、寛政9年（1797年）に61歳でその生涯を閉じました。彼の墓は、大阪市天王寺区にある潮待山天然寺にあります。墓碑には、かつて彼の学半塾での師であった細合半斎が銘文を記し、篆刻家、文人としての曽谷学川の生涯を伝えています。

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