東西遊記

東西遊記：江戸時代のベストセラー紀行

江戸時代後期、京の儒医橘南谿（たちばな なんけい）が著した『西遊記』と『東遊記』は、現在では紀行として分類される人気読本でした。通称「東西遊記」として知られ、天明年間（1782～1788年）の日本各地への旅を記録したものです。

南谿の旅と両遊記の成立

南谿は、医学の研鑽を目的として日本各地を巡りました。西遊記では西日本、東遊記では東日本を中心に、様々な出来事を記録しています。しかし、単なる旅日記ではなく、各地で出会った奇談や異聞を、旅程に関係なく章ごとにまとめています。

当時の書籍分類では、大判の紀行文と、小判の読物（奇談集）がありました。東西遊記は後者に属し、各地の珍しい話を集めた奇談集として出版され、読者にもそう受け止められていました。そのため、旅の正確な記録よりも、読者の興味を引く物語を重視した構成となっています。

南谿自身は、出版された両遊記を後に『東西遊記』として統合する意図を持っていましたが、それは実現しませんでした。しかし、両遊記は江戸時代後期を通じて何度も版を重ね、貝原益軒の紀行と並ぶ代表的な紀行として高い評価を得ました。

構成と文体

東西遊記は、旅程に沿って記述する一般的な紀行文とは異なり、共通のテーマごとに章立てされています。これは、先行する百井塘雨（どくい とうう）の『笈埃随筆』の影響も考えられます。しかし、南谿の作品は、各章が短編小説のように構成され、医術に関する話から些細な出来事、教訓話まで、様々な話題が平易で知的な文章で綴られています。この平易さが、幅広い読者層を獲得し、版を重ねる要因となったと考えられます。

また、『東遊記』には、円山応瑞・応挙兄弟、長沢蘆雪など、当時の著名な絵師による挿絵が多数収録されています。挿絵は、本文の情景を想像で描いたものか、南谿自身のスケッチを基にしたものと考えられています。

出版と改編

南谿は旅の記録を基に両遊記を編纂し、友人らに閲覧・転写させていました。その後、出版を希望する書肆が現れ、寛政7年（1795年）に『西遊記』（正編）と『東遊記』（正編）が出版されました。好評だったため、翌年には続編も出版されました。

出版に際しては、章の順序変更や削除・修正が行われ、特に外交や各藩の内政に関する記述は多く削除されています。これは、寛政から文化年間にかけて、政治的・社会的な言論統制が厳しかったため、幕府の検閲を避けるためだったと考えられます。一方、新たな章も追加されており、中には百井塘雨の『笈埃随筆』からの引用もあるようです。

旅の目的と南谿の思想

南谿自身は、旅の目的を「医学修行」と述べています。医書の誤謬を減らし、地方ごとの風土の違いが人体に与える影響を研究するためだったと考えられます。しかし、各地の奇異な出来事への興味も、旅の重要な目的だったようです。

南谿は旅を通して、優れた人物から学び、悪い人物から戒めを得ようとしていました。自身の倫理や教養を高めることも、旅の目的の一つだったと言えるでしょう。

西遊と東遊の旅程

西遊では、門人である文蔵を伴い、山陽道を下り九州へ。長崎、薩摩藩鹿児島などを巡り、約半年滞在しました。薩摩藩では、島津久徴と交流したと推測されます。帰京途中では、肥後国人吉で約50日間、医業に従事しました。

東遊では、門人養軒と共に、北陸道から奥州、江戸を経て京へ帰りました。東遊は、天明の大飢饉の爪痕が残る地域を巡るものであり、飢饉による悲惨な状況が稿本には記録されていますが、出版時には削除されています。

時代背景と南谿の位置づけ

南谿の旅は、当時の「探検家」に匹敵する大旅行でした。江戸時代には、商人や宗教者、文人墨客などが旅をしていましたが、南谿のように僻地まで足を延ばす者は少なかったと考えられます。南谿の旅は、鎖国下で生まれた日本の再発見という動きの一環と言えるでしょう。また、天明以降盛んになった地方巡歴の風潮の先駆けでもありました。

南谿の旅の記録は、正確な情報を伝えることを重視した貝原益軒の紀行とは異なり、読者の興味を引く物語に重点を置いたものです。そのため、正確な情報伝達を重視した古川古松軒からは批判的な意見もあったようです。

南谿と百井塘雨

南谿より前に同様の旅をした百井塘雨の『笈埃随筆』は、南谿の両遊記に大きな影響を与えました。両遊記には、塘雨の見聞を引用した箇所が多く見られます。南谿は、塘雨の業績を後世に残したいという気持ちもあったと考えられます。

結論

東西遊記は、単なる紀行にとどまらず、当時の社会情勢、文化、人々の生活を映し出す貴重な記録です。南谿の医学修行という目的と、読者の興味を引く物語という両面が合わさり、江戸時代後期の文化を理解する上で重要な資料となっています。

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