横川の僧都

『源氏物語』の謎めいた高僧：横川の僧都

『源氏物語』に登場する横川の僧都は、比叡山の奥深く、横川中堂を拠点とする高僧です。物語においては、浮舟の救済と出家という重要な役割を果たすだけでなく、作品全体の主題や構成を理解する上で欠かせない存在となっています。50歳前後の年齢とされ、多くの弟子を抱え、宮廷からもその徳の高さを認められた人物として描かれています。

慈悲と俗情の間で揺れる人間像

横川の僧都は「いと尊き人」と評される一方で、年老いた母尼の病気を聞けば修行を中断して駆けつけるなど、俗世間的な一面も見せます。この複雑な人間像こそが、多くの読者を魅了する理由の一つでしょう。『源氏物語』には多くの僧侶が登場しますが、これほど人間臭く、多面的に描かれた人物は珍しいと言えます。物語終盤における彼の行動は、浮舟の物語、そして宇治十帖全体、ひいては『源氏物語』全体の主題解明に繋がる重要な鍵を握っています。そのため、横川の僧都は『源氏物語』研究において最も重要なテーマの一つとして、古くから議論が続けられています。

家族と周囲の人々

横川の僧都には、比叡山西坂本小野に住む母尼と妹（小野の妹尼）という重要な家族がいます。80歳を超える母尼は、作中における最高齢人物として記録されています。妹尼はかつて衛門督と結婚し、娘ももうけていましたが、夫と娘に先立たれた後に出家。浮舟を亡くなった娘の身代わりとして喜び、浮舟を中将と再婚させようとします。興味深いことに、一部の古系図では、この妹尼は源信の妹である安養尼と同一視され、「安養尼本古系図」と呼ばれています。また、甥に紀伊守という人物も存在します。これらの家族関係は、僧都の行動や判断に影響を与え、物語に奥行きを与えています。

史実との関連性：源信との比較

横川の僧都のモデルは、平安時代の高僧、源信（恵心僧都）であるとする説が有力です。源信は、横川を拠点に活動し、僧都の位を持ち、母と妹が共に尼になったという点で、作中の人物と多くの共通点を持っています。室町時代初期の注釈書『河海抄』には、「なにがし僧都とは恵心僧都なり」との記述があり、この説を裏付けています。『源氏物語』本文中では「なにがしの僧都」と表記されている点も、当時の読者にとって源信が誰であるか明白だったことを示唆している可能性があります。しかし、母尼の死期や妹尼の結婚歴など、作中の人物と源信との間には食い違う点も存在し、単純に同一人物とするのは難しいという指摘もあります。

物語における横川の僧都の活動

横川の僧都は「手習」と「夢浮橋」の巻で重要な役割を果たします。初瀬詣での帰途、自害未遂の浮舟を救出し、妹尼の願いもあり、浮舟を小野の草庵に連れて帰ります。浮舟の意識が戻らない際には、修行を中断してまで修法を行い、彼女の回復に尽力します。その後、浮舟の懇願を受け、彼女に出家させます。また、明石の中宮に浮舟の噂話を伝え、薫と浮舟の出会いを間接的に促す役割も果たしています。

浮舟への手紙：還俗勧告か？

横川の僧都が浮舟に宛てた手紙の内容については、長らく議論が続いています。古注釈では、還俗を勧めるものと解釈されてきましたが、多屋頼俊らによって、還俗を勧めているとは限らないという指摘がなされ、現在でも様々な解釈が提示されています。

その他の「横川の僧都」

芥川龍之介の小説「地獄変」や「邪宗門」にも「横川の僧都」が登場しますが、これは『源氏物語』の横川の僧都とは無関係です。『宇治拾遺物語』、『大鏡』、『栄花物語』など、他の文献に基づいて創作された人物でありながら、モデルが源信であるという点は共通しています。

このように、横川の僧都は『源氏物語』における重要な人物であり、その謎めいた存在は、多くの研究者や読者を惹きつけてやみません。彼の行動、発言、そして人物像は、物語全体を理解する上で重要な手がかりとなるでしょう。

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