河海抄

河海抄：室町時代の『源氏物語』注釈書の金字塔

『河海抄』は、室町時代初期、14世紀半ば頃に成立した『源氏物語』の注釈書です。全20巻20冊からなり、作者は四辻善成。足利義詮将軍の命により作成されたと伝えられ、宮廷での『源氏物語』講義内容をまとめたものだと考えられています。しかし、現存する写本は、その後も善成が長年かけて加筆修正した成果と言えるでしょう。

善成は後に本書の秘説32項目をまとめた『珊瑚秘抄』も著しています。『河海抄』という書名は、『史記』李斯列伝にある「河海は細流を厭わず、故に其の深きことを成す」という成句に由来すると言われています。また、善成は本書に「従五位下物語博士源惟良」と署名していますが、この「惟良」は『源氏物語』に登場する藤原惟光と源良清の名前を合わせたものと考えられています。

多様な視点を取り込んだ注釈

『河海抄』は、『源氏物語』の成立由来、物語の時代背景、作品名、作者紫式部に関する伝承、歌道との関係など、多岐にわたる事柄を解説しています。『奥入』『紫明抄』といった先行注釈書を踏まえつつ、「七つの流派に分かれていた『源氏物語』の言説を統一した」と主張していますが、この「七つの流派」の具体的な内容は不明です。

本書は、現在失われたものも含め、多くの資料を引用し、それ以前の注釈書を詳しく紹介しているため、古注の集大成的な性格を持っています。様々な解釈を提示する一方、どの説が妥当とするかは明示しないことも多く、独自の解釈「今案」も数多く提示しています。

『源氏物語』の成立については、石山寺伝説にも触れ、巻数については天台60巻説を取り上げるなど、中世的な伝承も取り入れています。これらの点は江戸時代中期以降、国学者から批判されましたが、時代背景や解釈の準拠といった点で、現代の研究においても重要な示唆を与えています。本居宣長は『源氏物語玉の小櫛』で『河海抄』を「『源氏物語』注釈の第一」と高く評価しました。

本文は主に河内本に基づいており、青表紙本、伊行本、従一位麗子本など、現在異なる系統とされている諸本との比較検討も見られます。河内地方の注釈書の影響が強く見られるのも特徴です。

『源氏物語』注釈史における位置づけ

『河海抄』以前の『源氏物語』注釈書は、鎌倉を中心に活動した河内方による注釈書（『水原抄』『紫明抄』『原中最秘抄』）、写本への書き込みをまとめたもの（『源氏釈』『奥入』）、解釈の相違点のみを議論形式で記した書（『弘安源氏論議』）などがありました。

『河海抄』はこれらに続く、本格的な最初の注釈書であり、それまでの注釈書の集大成として、後の注釈書の基礎を築きました。『源氏物語』注釈史では、本書以前の注釈を「古注」、以降を「旧注」と区別しています。

写本と翻刻本

『河海抄』の写本は、大きく中書本系統と覆勘本系統に分けられます。主な写本としては、天理図書館本、静嘉堂文庫本、神宮文庫本などが知られています。翻刻本としては、玉上琢弥『源氏物語評釈資料編 紫明抄・河海抄』（角川書店、1968年）があります。

『河海抄』は、現代の『源氏物語』研究にとっても、その成立過程や多様な解釈を理解する上で、欠かせない重要な資料となっています。

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