火星の生命

火星に生命が存在するか否かという問いは、古くから科学者たちの想像力をかき立ててきました。地球と類似した特徴を持つことから、その可能性は長く推測されてきましたが、想像上の「火星人」は創作の世界に登場する一方で、実際の生命体の存在は未だ確認されていません。ただし、生命の生存に適した環境要素、特に液体の水の存在を示唆する証拠がいくつか見つかっています。

初期観測と「運河」の謎

17世紀に火星の極冠が観測され、18世紀にはその季節ごとの変化が捉えられました。19世紀半ばには、火星の1日が地球とほぼ同じ長さであることや、赤道傾斜角が近く四季が存在することなど、地球との様々な類似点が明らかになります。特に、明るさ（アルベド）の違いから、暗い部分は水、明るい部分は陸であるという推測が有力視され、火星に生命が存在するという考えは自然に受け入れられていきました。

1854年には、「科学者（scientist）」という言葉を広めたウィリアム・ウェルズによって、火星に海と陸、そして生命が存在するという仮説が提唱されました（ただし彼は太陽にも生命がいると考えていました）。この生命存在説は、19世紀後半に望遠鏡で「火星の運河」が観測されたことで大きな注目を集めます。イタリアの天文学者ジョヴァンニ・スキアパレッリが報告した線状の模様は、アメリカのパーシヴァル・ローウェルによって古代文明が造った運河だと解釈され、彼の著作『火星』や『火星と運河』によって広く知られました。このアイデアは、ハーバート・ジョージ・ウェルズのSF小説『宇宙戦争』（1897年）にインスピレーションを与え、惑星の乾燥から逃れる火星人が地球を侵略するという物語が生まれました。しかし、運河は望遠鏡の性能不足や光の錯覚によって生じた見かけの構造であることがすぐに判明しました。1894年にはウィリアム・キャンベルによる大気分析で水や酸素の不在が示され、1909年にはより精密な観測によって運河説は完全に否定されました。

宇宙探査による現実

1965年、アメリカの探査機マリナー4号が火星に接近して撮影した画像は、火星が乾燥しており、川や海、そして生命の痕跡が見られないことを示しました。さらに、表面が多数のクレーターで覆われていることから、過去数十億年にわたりプレートテクトニクスや風化作用がほとんど働いていないことが示唆されました。探査機の観測により、火星には地球のような生物を宇宙線から守る磁気圏がないことや、地表気圧が地球の150分の1以下（約0.6kPa）と低く、液体の水が安定して存在できないことも明らかになりました。マリナー4号の成果は、火星環境が予想以上に厳しいことを明らかにし、生命探査の対象を多細胞生物から微生物へとシフトさせる転換点となりました。

微生物探査の試み：バイキング計画

1970年代半ばに行われたバイキング計画の主要な目的の一つは、火星の土壌中に微生物を検出する実験でした。搭載された4つの実験のうち、放射性同位体で標識した元素を用いたガス放出実験だけが、代謝活動を示唆するような二酸化炭素の増加という有意な結果を示しました。科学者たちは、検出された二酸化炭素が実験に用いた元素から生成されたことと、同時に行われた有機分子の検出実験で明確な有機物が見つからなかったことには同意しましたが、実験結果の解釈については大きく意見が分かれました。実験計画者の一人であるギルバート・レヴィンはこれを生命の確実な証拠だと主張しましたが、多くの科学者は、土壌中の活性酸素化合物が生物なしでも同様の結果を生じさせると反論しました。また、有機分子検出装置の感度が十分ではなかった可能性も指摘され、バイキング計画の微生物探査の結果は、専門家の間では「決定的ではない」という評価に留まりました。その後、火星が磁気圏を失ったことで太陽風や宇宙線が直接地表に降り注ぎ、土壌と反応するため、生物が存在しにくい環境になったことが改めて確認されました。低い気圧と温度も、生命に不可欠な液体の水の存在を極めて限定的なものとしています。

生命の痕跡を探る証拠

バイキング計画以降も、様々な角度から火星生命の可能性が探求されています。

火星隕石

地球に落下した火星由来の隕石の研究は、過去の火星生命の痕跡を探る貴重な手がかりとなっています。NASAは約60個の火星隕石をカタログ化しており、そのうち少なくとも3個に過去の生命活動を示唆する痕跡が見つかったとする研究結果が発表されています。特に有名なのはALH 84001で、磁鉄鉱の結晶構造や多環芳香族炭化水素の存在が生物起源である可能性を示唆しています。ナクラ隕石からは水変性の痕跡や高分子量の有機化合物が見つかり、シャーゴッティ隕石には生物膜のような構造が見られます。これらの発見は科学的な事実ですが、その解釈、特に生物由来か無機的なプロセスによるものかについては現在も議論が続いています。地球の地質学的サンプルで過去の生命痕跡を認定する7つの基準（地質状況、年代、細胞の証拠、生体鉱物、安定同位体組成、有機生物指標、生来の特徴）が火星隕石にも適用され、検証が進められています。

液体の水の存在

生命の存在に不可欠な液体の水の探索は、近年の火星探査の主要な焦点となっています。探査機による観測から、過去に火星表面に湖や海が存在した可能性を示唆する証拠（例：水の存在下で形成される赤鉄鉱）が見つかっています。また、かつて水が流れたことを示唆する水路のような地形も発見されています。2018年には、レーダー観測データから火星南極の厚い氷床の下に液体の水（地底湖）が存在する可能性が発表され、生命生存の可能性が再び注目を集めました。しかし、火星の過去や現在の水は塩分濃度が非常に高く、地球上の多くの生命にとっては過酷な環境であることも示されています。さらに、水路状構造が水の流れ以外の現象（風化、隕石衝突など）で説明できるという反論や、火星表面の低い気圧と温度では液体の水が安定して存在できないという物理的な制約も指摘されています。

大気成分の手がかり

火星の大気中に微量に存在するメタン（2003年発見）やホルムアルデヒド（2005年検出）は、地質的な活動か生物活動によって供給されている可能性があり、生命の兆候となりうるとして関心を集めています。特にメタンは地質的な供給源が乏しいことから、メタン生成菌のような微生物の活動を示唆する可能性が議論されていますが、確証には至っていません。

その他の地質学的証拠

温泉や火山活動を示唆する豊富なシリカの発見（2007年）は、過去の火星に微生物が生息可能な環境があった可能性を示唆しています。また、火星の極地で見られる季節的な間欠泉のような現象（二酸化炭素の昇華による）の形態が、光合成微生物のコロニーによって形成されたとするユニークな説も提案されていますが、他の説明も可能です。

過酷な環境と生命の可能性

火星は磁気圏を持たないため、太陽風や宇宙線が地表に強く降り注ぎ、生物にとって有害な環境となっています。計算によれば、宇宙線によるDNA損傷のため、地表から約7.5mより浅い場所では生命が存在し得ないと考えられています。したがって、もし火星に生命が存在するとすれば、それはこのような宇宙線から守られ、液体の水が存在する可能性のある地下深くに生息している可能性が高いと考えられています。

未来への探査

これまでの探査で火星環境の理解は進みましたが、生命の存在についてはまだ決定的な証拠は見つかっていません。フェニックス（2008年）は極地で地表近くの氷を確認し、土壌に過塩素酸塩が含まれることを発見しました。マーズ・サイエンス・ラボラトリー（2011年打上げ、ローバー「キュリオシティ」）やマーズ2020（ローバー「パーセベランス」）は、過去の生命存在に適した環境や有機物の痕跡を探査しています。将来のミッションでは、宇宙線や厳しい環境から保護された地下のサンプルを採取するための掘削や、火星のサンプルを地球に持ち帰って詳細に分析するマーズ・サンプルリターン計画が検討されています。これらの探査を通じて、火星における生命の謎が解き明かされることが期待されています。

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