熊沢正夫

熊沢正夫（くまざわ まさお）は、1904年（明治37年）5月、愛知県名古屋市に生まれた日本の植物学者です。主に植物の形態学、特に維管束系の研究で顕著な業績を残しました。1982年5月7日に78歳で逝去しています。地球科学者の熊澤峰夫は彼の息子にあたり、熊沢光子は妹です。

略歴

幼少期は、地方裁判所の判事を経て弁護士を開業した父のもとで育ちました。父は貧しい人々からは報酬を得ない方針だったため、家庭の経済状況は必ずしも豊かではなかったと伝えられています。名古屋の東海中学校、旧制第八高等学校（現在の名古屋大学の前身の一つ）を経て、東京帝国大学（現・東京大学）理学部の植物学科に進学し、1929年に卒業しました。

大学卒業後は、植物学の研究と教育に人生を捧げました。1933年からは旧制第四高等学校（現在の金沢大学）で植物学の講師として教壇に立ち、翌1934年には教授に昇任し、1942年まで勤務しました。その後、母校である旧制第八高等学校に移り、教育にあたります。ここでは、後に集団遺伝学の世界的権威となる木村資生を指導したことは、彼の教育者としての功績の一つとして特筆されます。旧制高等学校が新制大学に移行する過程で、第八高等学校が名古屋大学に統合されると、熊沢は名古屋大学の教授として引き続き研究・教育活動に専念しました。長年の植物学への貢献により、定年退職後には名古屋大学名誉教授の称号を贈られました。

業績と著作

熊沢の研究は、植物の形態学、特に維管束の構成や走向、その発生過程に焦点を当てて行われました。トウモロコシをはじめとする単子葉植物や、多様な双子葉植物、ユリ科植物などの形態形成について詳細な観察と分析を行い、その成果を多数の学術論文として発表しています。また、サギソウの地下器官やショウジョウバカマの葉上不定芽など、様々な植物の独特な形態学的特徴についても研究しました。

1979年に出版された彼の主著『植物器官学』は、日本語で書かれた植物形態学の入門書が当時少なかった状況において、手軽な手引き書として広く歓迎されました。この著作は、熊沢が長年にわたる研究で培った広い視野に基づいて、植物の器官構造を網羅的に記述したものであると高く評価されています。学術的な専門書の他、若い頃には『登山とキヤムピング』（1931年）、『上高地 : 登山と研究』（1934年）といった登山に関連する著作も刊行しており、多角的な興味を持っていた一面もうかがえます。

人物像

熊沢の人物像は、学問への深い探求心と、世俗的な事柄への淡白さによって特徴づけられます。二男八女という大家族の長男として生まれながら、家族との関わり方には独特な面がありました。妹の熊沢光子とは、散歩中に偶然見かけても声をかけないほどだったというエピソードが残っています。光子が赤色ギャング事件で検挙された際に、父と共に面会に行ったのが、彼女との最後の対面となったといいます。光子の遺書を長年大切に保管していましたが、息子の峰夫氏が結婚する際に、息子の妻の実家に配慮して処分したという話からも、家族への思いやりと、ある種の距離感が感じられます。

また、学問一筋の姿勢は、戦前の軍国主義が強まる時代にあっても、周囲が皆坊主頭にする中でただ一人髪を切らなかったという逸話や、友人が神社の前で参拝している間、自身は傍らでただ待っているだけだったというエピソードからも見て取れます。これらの話は、彼の学問以外の事柄への関心の薄さや、自身の信念を貫く朴訥な人柄を表していると言えるでしょう。

晩年

名古屋大学名誉教授として晩年を過ごし、1982年に78歳で逝去しました。彼は生前から自身の最期について明確な意思を持っており、その遺言に従い、葬儀は執り行われませんでした。また、死亡広告も掲載されませんでした。さらに、遺体は医学の発展に貢献するため、遺言通り名古屋大学医学部に献体されました。これは、彼の生涯にわたる学問への貢献を願う、熊沢らしい最後の姿勢を示すものでした。

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