甲州石班澤

葛飾北斎『富嶽三十六景』「甲州石班澤」：富士川と人々の営みを描いた名作

葛飾北斎の代表作として名高い『富嶽三十六景』。その中に含まれる「甲州石班澤」（こうしゅうかじかざわ）は、山梨県富士川町鰍沢の風景を捉えた一枚です。この地は、釜無川と笛吹川が合流し、富士川となる地点であり、古くから富士川舟運の重要な拠点として栄えてきました。絵画の中央には、荒々しい岩場から流れ出す富士川が力強く描かれ、その流れの激しさ、特に「兎の瀬」と呼ばれる難所を想起させます。

絵画をよく見ると、岩場から波打つ富士川に向かっていく漁師の姿が確認できます。漁師の傍らには、小さな子供が籠を携えている様子も描かれており、当時の生活の一端を垣間見ることができます。漁師が手にしているのは投網とされていますが、その描写の詳細については、投網なのか鵜飼なのか、物理的な観点からも議論が交わされているようです。

「甲州石班澤」というタイトルに用いられている「石班澤（かじかざわ）」という表記は、カジカ（鰍）とウグイ（石斑魚）の混同が原因ではないかと推測されています。この誤記は、北斎の自然に対する観察眼の深さ、あるいは当時の一般的な認識を反映しているのかもしれません。

この作品は、その制作過程においても興味深い特徴を持っています。初摺は藍一色で摺られていますが、後摺ではより多くの色を用いた多色摺で制作されました。藍摺りの簡潔な表現と、多色摺りの華麗な表現、それぞれの魅力が際立ちます。

さらに、北斎の代表的なスケッチ集である『北斎漫画　十三編』の中に、「（甲州）猪ノ鼻」という題名で、本図を反転させた図が掲載されている点が注目されます。富嶽の描写を省略した簡略な図柄は、北斎がどのように構図を練り、アイデアをスケッチに落とし込んでいたのかを知る上で貴重な資料となります。

様々な解釈が可能な「甲州石班澤」は、単なる風景画にとどまらず、富士川を舞台にした人々の生活、自然の厳しさ、そして北斎の表現技法の多様性を示す、奥深い作品と言えるでしょう。現在に残る多くの版画や文献資料、そして様々な研究者の考察から、この作品は多角的に分析、解釈することができ、その魅力は尽きることがありません。

参考文献

Lane, Richard (1989). Hokusai:Life and Work. London: Kalmann&King
レイン, リチャード 著、竹内泰之 訳『伝記画集 北斎』河出書房新社、1995年
永田, 生慈『北斎美術館2 風景画』集英社、1990年
山梨県立博物館 編『北斎と広重 ふたりの富嶽三十六景』山梨県立博物館、2007年
永田, 生慈『限定版 新撰 葛飾北斎 永寿堂版「富嶽三十六景」』小学館、2014年
秋田, 達也 著「甲州石班澤」、大久保純一 編『日本美術全集15 浮世絵と江戸の美術』小学館、2014年
有泉, 豊明『葛飾北斎 富嶽三十六景を読む』目の眼、2014年
津田, 卓子 著「甲州石班澤」、名古屋市博物館 編『北斎だるせん!』名古屋市博物館、2017年
The British Museum, ed. (2017). Hokusai: beyond the Great Wave. London
キーズ, ロジャー、クラーク, ティモシー 著、矢野明子・定村来人 訳「甲州石班澤」、あべのハルカス美術館ほか編 編『北斎 富士を超えて』2017年
小山, 周子 著「甲州石班澤」、国際浮世絵学会ほか 編『大浮世絵展 歌麿、写楽、北斎、広重、国芳 夢の競演』東京都江戸東京博物館、2019年
日野原, 健司『北斎 富嶽三十六景』岩波書店〈岩波文庫〉、2019年
* 磯崎康彦「北斎の風景・風俗版画」『福島大学人間発達文化学類論集』 34巻、福島大学人間発達文化学類、2021年

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