百物語 (葛飾北斎)

葛飾北斎の錦絵『百物語』：江戸時代の怪談絵巻

葛飾北斎は、江戸時代後期の浮世絵界を代表する巨匠です。その北斎が天保2年（1831年）から天保3年（1832年）頃にかけて制作したとされるのが、『百物語』という錦絵です。当時流行していた怪談会「百物語」を題材に、全百図を構想したと伝えられていますが、現存するのはわずか5図のみ。制作途中で中断されたまま、長い間世に知られることはありませんでした。しかし、明治26年（1893年）に復刻版が制作されたことで、その存在が再認識され、現在では東京国立博物館に収蔵されています。

江戸時代の妖怪画と怪談文化

『百物語』を理解するためには、江戸時代の妖怪画と怪談文化の隆盛を知る必要があります。妖怪は、人知を超えた現象や存在を指す言葉ですが、日本では古くから「もののけ」「鬼」などと呼ばれ、人々の恐怖や畏敬の念の対象でした。中世には『土蜘蛛草紙』や『百鬼夜行絵巻』といった妖怪絵が描かれ、絵画における妖怪表現の基礎が築かれました。

浮世絵における妖怪画の始まりは、菱川師宣が武者絵の中に描いた酒呑童子や羅生門の鬼などに遡ります。18世紀後半には鳥山石燕が登場し、『画図百鬼夜行』を刊行することで、様々な化物のキャラクター化が進みました。その後、鶴屋南北らによる幽霊やグロテスクな描写を取り入れた新たな怪談表現が生まれ、月岡芳年や落合芳幾らによって浮世絵として表現されていきます。

一方、怪談は身近な不可思議な現象を語り継ぐもので、平安時代の『日本霊異記』や『今昔物語集』にその起源を見ることができます。近世には百物語の流行とともに、多くの怪談集が出版されました。北斎自身も若い頃から妖怪絵や怪奇表現に関心を持ち、様々な作品に携わってきました。例えば、勝川春朗を名乗っていた時期に制作した『化物屋敷百物語の図』や、山東京伝の黄表紙『化物和本草』の挿絵などが挙げられます。

『百物語』の五図：各作品の詳細

現存する『百物語』五図は、いずれも有名な怪談を題材としています。

さらやしき（皿屋敷）：　お菊が井戸に投げ捨てられた後、夜な夜な皿を数える幽霊の姿を描いています。髪の毛に絡まった皿は蛇のようにうねり、独特の解釈による表現が特徴的です。

笑ひはんにや（般若）：　嫉妬に狂った鬼女の姿を描いた作品です。赤子の生首を持ち、狂気じみた笑みを浮かべたその姿は、強烈なインパクトを与えます。長野県に伝わる「笑般若」をテーマにした可能性も指摘されています。

お岩さん：　『東海道四谷怪談』のお岩さんの霊が提灯に乗り移る場面を描いています。腫れ上がった顔と破れた提灯の一体化は恐怖を煽りながらも、哀愁を感じさせる表現となっています。

こはだ小平二：　山東京伝の『復讐奇談安積沼』に登場する死霊、小幡小平次の姿を描いています。腐乱した白骨化した姿は、北斎の解剖学的な知識と、幽霊の異常さを際立たせる演出が見られます。

* しうねん：　蛇をモチーフにした作品で、「亡者の執念」をテーマにしています。位牌や供物を囲むように描かれた蛇は、百々爺を彷彿とさせ、北斎自身の画号「卍」も描かれています。

『百物語』の影響と評価

『百物語』は、後世の浮世絵師にも影響を与えました。例えば、春梅斎北英や落合芳幾は、北斎の作品をオマージュした作品を制作しています。しかし、美術作品としては必ずしも高い評価を受けているわけではありません。生々しい臨場感や熱っぽさが薄れている、恐怖表現としてやや物足りないなどの指摘があります。北斎の膨大な作品群の中でも、特に優れた作品とは見なされていないのが現状です。

まとめ

葛飾北斎の『百物語』は、江戸時代の怪談文化と妖怪画の隆盛を背景に生まれた、貴重な作品群です。現存する5図は、北斎独自の解釈と表現によって、それぞれの怪談の持つ恐怖や哀愁を際立たせています。美術史的な評価は必ずしも高くありませんが、江戸時代の文化を知る上で重要な資料であり、北斎の多様な表現力の片鱗を垣間見ることができる作品群です。

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