看護倫理

看護倫理：患者の尊厳と自己決定を重視するケアの倫理

看護倫理は、生命倫理を基盤とする応用倫理の一分野です。医療倫理と多くの共通点を持つ一方、患者との人間関係、個人の尊厳、そして協働的なケア（コラボレーティブケア）に重点を置く点が異なります。無加害原則、与益原則、自主尊重原則（自己決定権）といった医療倫理の基本原則を共有しながらも、看護倫理は、患者の権利と尊厳を尊重することにより一層焦点を当てています。

看護倫理の進化：医師への忠誠から患者中心のケアへ

歴史的には、看護倫理は医師への忠誠心を含む、優れた看護師としての徳性を重視する傾向がありました。患者との関係性における具体的な行動規範というよりは、理想的な看護師像を追求する側面が強かったと言えるでしょう。

しかし近年、看護倫理は大きく転換を遂げています。患者の人権と尊厳を尊重するという看護師の義務がより明確に認識されるようになり、国際看護師協会（ICN）などの最新の規範にも反映されています。これは、単なる「治癒」だけでなく、患者の「ケア」そのものの倫理性を深く探求する方向への転換を示しています。看護師と患者間の日常的な相互作用を倫理的に検討することが、看護の本質と言えるでしょう。

看護倫理の独自性：ケアへの焦点と日常倫理の重視

看護倫理は医療倫理と類似している部分が多いですが、重要な違いも存在します。看護師は病気の治療だけでなく、患者のケアに焦点を当てることで独自の倫理観を構築します。これは、治療という結果よりも、ケアのプロセスにおける倫理的課題を重視するということです。

また、看護倫理は、医療倫理に見られるような大きな倫理的ジレンマよりも、日常的な状況における倫理的問題に重点を置きます。例えば、与益原則に基づく医療行為であっても、患者中心の価値観と相容れない場合は、倫理的な問題が生じ得ます。伝統的な医療における父権主義的なアプローチとは対照的に、看護倫理は思いやりのある人間関係を構築することに重点を置く傾向があります。

さらに、道徳義務論ではなく徳倫理学、そしてケアの倫理への支持も根強くあります。これは、抽象的な原則よりも、患者との具体的な関係性を重視する点に由来します。尊重と思いやりのある姿勢と態度によって患者の尊厳を尊重することは、看護倫理における重要なテーマです。

看護倫理の必要性：ルーチン化された医療現場における倫理的課題

医療社会学者のダニエル・F・チャンブリス博士は、病院という環境が独特の道徳システムを持っていると指摘しています。日常的な医療行為がルーチン化・平坦化されることで、看護師は倫理的問題を認識しにくくなる可能性があるのです。患者は個としてではなく、単なる症例として扱われる危険性すらあります。看護師は、倫理的問題に積極的に関与し、患者の人格と尊厳を尊重する姿勢を持つことが求められています。

看護倫理の重点：尊厳の保持と自己決定権の尊重

看護師は、患者の尊厳を守る役割を担っています。特に脆弱な立場にある患者に尊厳のあるケアを提供することは、看護倫理の重要な概念です。人の尊厳を尊重することは、他者への尊重、そして自己決定権（オートノミー）の尊重に直結します。インフォームド・コンセントは、この自己決定権を尊重する上で不可欠な実践です。無意識状態や判断能力が低下している患者の場合、事前に意思表明書を作成しておくことが提案されています。ただし、日本の医療現場では「自律性」の誤訳による自己決定権の否定といった問題も指摘されています。

機密保持（守秘義務）も重要な原則です。患者の許可なく情報を共有することは、原則として許されません。また、患者への情報提供においては、真実を伝えることと、患者の精神的な負担を考慮することのバランスが重要になります。近年では、記述倫理学（comparative・empirical ethics）の役割も注目されています。これらの点を考慮することで、看護師は倫理的な方法で看護を実践できると考えられています。

日本の看護倫理の歴史と現状

戦後の日本では、1980年代初頭まで看護倫理に関する研究や議論が不足していました。かつては、清楚さや医師への従順さなどが重視されていましたが、戦後民主主義の浸透や経済発展に伴い、そのような価値観に対する反発が強まり、看護倫理自体が敬遠される時期もありました。

1988年に日本看護協会が「看護師の倫理規定」を策定、その後「看護者の倫理綱領」へ改訂されましたが、アメリカの看護協会（ANA）の「看護師の倫理規範」のような詳細な規定とは異なり、抽象的な記述にとどまっています。

特に、患者との境界線（バウンダリー）の概念や、その侵害を防ぐための具体的なガイドラインについては、欧米諸国に比べて遅れている現状があります。これは、日本の文化において、個人の権利よりも人間関係や場の調和を重視する傾向が影響している可能性があります。

日本の法制度においても、患者の権利を明確に規定した法律は未だ存在せず、患者の自己決定権や尊厳を十分に保障する体制の構築が今後の課題です。

参考文献

Hunt, G (ed) Ethical Issues in Nursing. Routledge, London, 1994.
Thompson,I.E, Melia, Kath M., Boyd, Kenneth M. : Nursing Ethics. Churchill Livigstone, London, 2000
* Journal: Nursing Ethics: An International Journal for Healthcare Professionals. Arnold, London.

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