私たちの望むものは

私たちの望むものは

『私たちの望むものは』は、日本のフォークシンガー、岡林信康が1970年7月5日に日本ビクターから発売したシングル楽曲です。この曲は、当時の音楽シーンにおける岡林信康の置かれた状況や、彼自身の精神的な変化を色濃く反映した作品として知られています。

楽曲誕生の背景：幻の「蒸発事件」

この楽曲の誕生には、1969年秋に発生した、いわゆる「岡林信康蒸発事件」が深く関わっています。同年9月6日の大阪労音公演を急遽欠席し、さらに同月23日の東京公演を控えた直前には、「下痢を治してきます」という置き手紙を残したまま行方をくらませたこの出来事は、当時様々な音楽メディアで大きく報じられ、波紋を呼びました。

失踪の原因は、連日の過密な地方公演による疲労に加え、「コマーシャリズムに迎合し、レコードで利益を得ている」といった、当時のフォーク・ゲリラからの根拠のない批判などに精神的に追い詰められたことにありました。

失踪中の内省と視点の変化

失踪期間中、岡林信康は俗世間から離れて静かに過ごし、深く思考を巡らせていたと言われています。この時期に彼はボブ・ディランの音楽に耳を傾け、精神分析学者W.ライヒの著書『性と文化の革命』（中尾ハジメ訳）を熟読しました。こうした内省的な探求の過程で、彼はフランスの学生運動の際に壁に書かれた落書きを集めたジュリアン・ブザンソン編の書籍『壁は語る』から大きな示唆を得ました。

これまでの彼の楽曲が社会や外部に向けた批判精神に満ちていたのに対し、この失踪期間を経て、「外部を批判するだけでなく、自分自身の内部にも向き合い、噛みつくべき部分があるのではないか」という、自己への問いかけへと視点が大きく転換したのです。この新たな気づきが、『私たちの望むものは』という楽曲の創作へと繋がりました。

作品の評価と後世への影響

ビクターレコードの当時のディレクターであった深井静史は、この曲について「岡林の目が外から自分の内部に向いた分、たくさんの人々のハートに訴え、共感を呼んだようです。新生・岡林信康の誕生だったと思います」と述懐しています。この楽曲は、従来のプロテストソングとは異なる、より内省的で普遍的なテーマを持つ作品として、多くの聴衆の心に響きました。

また、この楽曲は後進のアーティストにも影響を与えています。例えば、シンガーソングライターの松山千春は、小学6年生の時に初めて岡林信康のコンサートに触れ、「山谷ブルース」や「チューリップのアップリケ」といった楽曲に衝撃を受けました。その後、フォークソングに傾倒する中で高校生になり、文化祭の前夜祭でこの「私たちの望むものは」を歌った際に感じた聴衆との一体感が、彼が歌手を志す決定的なきっかけになったと語っています。

シングルおよび収録アルバム

シングル『私たちの望むものは』は、A面に表題曲、B面に『性と文化の革命』が収録された両A面的な性格を持つ作品でした。クレジット上は作詞・作曲・編曲・歌すべてが岡林信康、伴奏はビクター・オーケストラとなっています。しかし、1970年4月に行われたライブ「私たちの望むものは 音楽舎春場所実況録音」で、岡林自身がこの曲を披露する際に、ジャックスの早川義夫との共作であることを示唆する発言をしています。

この楽曲は、同年に発売された岡林信康のアルバム第二集『見るまえに跳べ』にも収録されましたが、シングル盤とは異なるテイクとなっています。また、前述のライブ音源を収録したアルバム『私たちの望むものは 音楽舎春場所実況録音』にも収められています。

主なカバーアーティスト

『私たちの望むものは』は、その後の日本の音楽シーンで多くのアーティストによってカバーされています。

泉谷しげる
山下達郎（※ライブ音源のみ）
唄人羽（2004年 シングル『BORDER』収録）
松山千春（2006年 カバーアルバム『再生』収録）
阿部芙蓉美（2011年 アルバム『町』収録、映画『ケンタとジュンとカヨちゃんの国』エンディングテーマ）
kōkua（2016年 アルバム『Progress』収録）

「岡林信康蒸発事件」という個人的な危機を経て、自己の内面と向き合うことから生まれた『私たちの望むものは』は、単なる社会批判に留まらない、普遍的な人間の願いや問いを込めた楽曲として、時代を超えて多くの人々に共感され続けています。

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