秋山徳蔵

秋山徳蔵（1888年 - 1974年）は、明治から昭和にかけて日本の食文化に大きな足跡を残した稀代の料理人です。特に、大正期から長きにわたり宮内省（後の宮内庁）で主厨長を務め、皇室の食卓を預かりました。その生涯は小説やドラマのモデルとなり、『天皇の料理番』として広くその名が知られています。

福井県の裕福な料理屋の次男として生まれた秋山は、幼少期から非常にわんぱくな性格でした。寺に預けられてもいたずらが治まらず、一年で追い出されたといいます。そんな秋山が料理の世界に目覚めたのは、陸軍連隊の食堂で嗅いだ西洋料理の香りに触れた時でした。特に初めて口にしたカツレツの味に衝撃を受け、西洋料理人になることを決意します。高等小学校卒業後、16歳で単身上京し、華族会館で料理人としての第一歩を踏み出しました。その後、駐日ブラジル公使館、築地精養軒を経て東洋軒で腕を磨きます。精養軒では、フランスのオテル・リッツでオーギュスト・エスコフィエに師事した西尾益吉から学び、自身もフランスでの本格的な修行を目指しました。

1909年、私費でヨーロッパへ渡航。当時の日本人料理人としては極めて珍しい試みでした。ベルリンのホテルを経てパリへ移り、日本大使館の紹介でオテル・マジェスティックの厨房に入ります。異国の地で言葉や文化の違いに苦労しながらも、実力主義の世界で頭角を現しました。キャフェ・ド・パリでの修行を経て、念願だったオテル・リッツ・パリで巨匠エスコフィエの下で学びました。フランスでの料理人組合の手厚い待遇や、職業に対する人々の誇りに感銘を受け、フランスへの永住も考えたほどでした。

しかし、1913年、大正天皇即位の礼に際し、本格的な西洋料理を提供できる人材としてパリの日本大使館から宮内省へ推薦され、帰国要請を受けます。東京倶楽部を経て宮内省大膳寮の初代厨司長に就任。同年、下宿先の娘と結婚し、秋山姓となりました。1915年に行われた大正天皇の御大典では、国内外からの賓客をもてなす大饗の料理を指揮。この際に計画されたニホンザリガニを使った料理では、必要数の確保から輸送、そして保管中の思わぬ消失騒動（水道水による逃走）まで、多くの苦労がありました。

その後も研究熱心な秋山は、宮内省の命で再び渡仏し、ヨーロッパやアメリカの食文化を視察。その知識と経験をまとめた1600ページに及ぶ『仏蘭西料理全書』は、戦後の西洋料理を学ぶ者たちのバイブル的存在となりました。

宮中での仕事では、時に規律に厳しい一面を見せ、土足で厨房に入った高官を怒鳴りつけたというエピソードも残っています。また、質素を重んじる昭和天皇の食生活についても、側近ですら知らない真実を著書で明かしています。戦時中の食糧難にあっても、ヤミの食材は一切使わず、配給品や代用食で献立を考え、常に国民と同じ水準であろうとした天皇の姿勢を間近で見てきました。

第二次世界大戦後、日本がGHQの占領下に置かれた時期は、秋山にとって人生で最も屈辱的な時代でした。皇室と日本の存続のため、GHQ幹部への接待役を担わざるを得なかったのです。鴨場や御料牧場での狩猟接待、鮎漁への招待など、慣れない「たいこもち」として彼らの機嫌を取る日々。ホイットニー准将夫人の横暴にも耐え、ポケットマネーで付け届けを用意するなど苦心しました。特にGHQ幹部夫人たちに頭を触られたり、口紅で日の丸を描かれたりした屈辱的な体験を語っています。しかし、サンフランシスコ講和条約調印の日をもって、ぴたりとこうした接待をやめたといいます。

秋山は公の立場だけでなく、個人の生活においても情愛深い人物でした。最愛の先妻俊子を肺結核で亡くした際には腑抜けのようになり、臨終に託された鈴を生涯肌身離さず持ち歩き、自戒のよすがとしました。また、貞明皇后（大正天皇の皇后、昭和天皇の母）を母、姉のように慕っており、貞明皇后からの温かい心遣いや、厨房を視察された際の感激、崩御を機に長年の愛煙を断ったエピソードなどを深く回想しています。

1972年に84歳で現役を引退。晩年まで料理への情熱は衰えませんでした。日本の食文化史において、特に西洋料理の導入・普及・確立に果たした役割は大きく、「日本の食を変えた人物」と評されています。その技術と精神は多くの弟子に引き継がれました。

もう一度検索