秘密 (谷崎潤一郎)

『秘密』：刺激と秘密の狭間で揺れる男の物語

谷崎潤一郎の短編小説『秘密』は、退屈な日常に飽きた男の、変装と秘密への探求を描いた官能的な作品です。明治44年11月、『中央公論』に初掲載され、同年12月には『刺青』に収録されました。

物語は、都会の喧騒から逃れるように寺に身を寄せた「私」から始まります。「私」は、夜な夜な酒を飲み、読書に耽り、時に変装して街へと繰り出します。そんなある日、古着屋で見つけた小紋縮緬の袷を着たことで、「私」は本格的な女装を始めます。

古風な装いと自身の美貌を武器に、女性として街を闊歩する「私」。その自信は、かつて関係を持っていたT女との再会によってさらに増幅します。しかし、二人は互いの素性を隠したまま逢瀬を重ね、その秘密が「私」を次第に苛んでいきます。

T女の秘密をどうしても知りたいという衝動に駆られた「私」は、ついに彼女の住処を突き止めます。しかし、その秘密を暴いた瞬間、「私」はT女への興味を失ってしまいます。それは、禁断の秘密を知ってしまったことによる飽き足らなさ、あるいは、より刺激的な、より深淵な快楽への渇望と言えるでしょう。

この物語における「私」は、単なる変装趣味の男ではありません。彼は、退屈や刺激不足から逃れ、新たな世界を求める、一種の探求者です。そして、その探求は、T女との関係を通して、人間の深層心理、特に秘密と欲望の複雑な絡み合いを浮き彫りにします。

登場人物は、「私」以外にも、謎めいたT女、二人の逢瀬を支える車夫、そして「私」の父親や寺の住人など、多彩な顔ぶれが物語を彩ります。特に、古着屋で見つけた袷の元の持ち主である大柄の女は、「私」の女装への自信を深めるきっかけとなる重要な存在です。また、街で出会う人々、交番の巡査や通行人、幾人もの女性たちは、「私」の女装に気づかないか、あるいは羨望のまなざしを向けることで、物語に現実味と皮肉を織り交ぜています。

物語全体を通して、明治時代の独特の雰囲気と、繊細な心理描写が絶妙に融合しています。谷崎潤一郎独特の耽美的な文体と、官能的な描写は、読者に強烈な印象を与え、人間の心の闇や欲望の複雑さを深く考えさせます。

『秘密』は、単なる変装や恋愛の物語ではありません。それは、人間の根源的な欲求、秘密への探求、そしてその先に待ち受ける虚無感や新たな渇望といった、普遍的なテーマを扱った、深く考えさせられる作品です。 現代の読者にとっても、その深遠なテーマと洗練された文体は、強い魅力を放ち続けるでしょう。

参考文献

谷崎潤一郎『刺青・秘密』（改）新潮文庫、1994年2月。ISBN 978-4-10-100503-4。初版1969年8月
笠原伸夫 編『新潮日本文学アルバム7 谷崎潤一郎』新潮社、1985年1月。ISBN 978-4-10-620607-8。
* 『文藝別冊 谷崎潤一郎――没後五十年、文学の奇蹟』河出書房新社〈KAWADE夢ムック〉、2015年2月。ISBN 978-4309978550。

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