美しい村

堀辰雄の中編小説『美しい村』は、彼の初期の代表作の一つであり、『聖家族』に続いて発表されました。この作品は、「序曲」「美しい村或は小遁走曲」「夏」「暗い道」という四つの章から構成されています。夏の訪れ前の軽井沢の高原を舞台に、心に傷を負った小説家である「私」が、その地での滞在中に経験したり、思索したりすることを綴る物語です。特に「夏」の章には、後に『風立ちぬ』のヒロインのモデルとなる少女が登場し、物語の展開に大きな転換点をもたらします。

作品の成り立ちと構成

本作は、作者である堀辰雄自身が精神的な困難を抱えていた時期に、軽井沢での滞在を通じてその状況から脱却していく過程が描かれています。堀は、作品の主題や感情を直接的に表現せず、音楽のように描き出したいと考え、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの遁走曲（フーガ）から着想を得ました。遁走曲が複数の旋律が追走し、応答しながら展開していくように、物語もまた異なるテーマや挿話が絡み合いながら進んでいきます。「美しい村或は小遁走曲」という章の副題は、この音楽的な構成への意識を示唆しています。

堀は軽井沢での散歩を日課としていた際に、偶然耳にしたバッハのト短調の遁走曲のピアノ演奏から、小説の形式的なアイデアを得たと言われています。主人公の「私」が作中で繰り返し辿る四つの散歩道は、それぞれが独自の旋律を奏でるように描かれ、それらがやがて一つの主題へと収斂していく様子は、音楽的な描法そのものです。また、主人公がこれらの道を繰り返し歩く中で物語全体の構成が固まっていくという、作中作的な「入れ子構造」も持っており、主題の発展を追い求める小説家の姿を描いた、一種の「アンチ・ロマン」（反・小説）としての側面も指摘されています。

文体の特徴

『美しい村』の文体は、堀のそれまでの作品、『ルウベンスの偽画』や『聖家族』と比較して、より「息の長い」、複雑で屈曲した表現が用いられています。これは、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』からの影響を堀が強く受け、意図的にその文体を取り入れた結果とされています。堀は1931年に療養所に入院中にプルーストを読み始めたと言われていますが、プルーストの影響が作品に明確に現れたのは『風立ちぬ』からだとする見方もあります。しかし、三輪秀彦は、堀が自身の詩的な特性とプルーストの長大な文体との間で巧みにバランスを取り、『美しい村』で独自の「感情流路の形式」を確立したことが、その後の作品や晩年の王朝文学への傾倒へと繋がる重要な一歩であったと解説しています。

作品の背景とモデル

『美しい村』の執筆が開始された1933年頃、堀辰雄は結核による闘病生活の最中にあり、また、片山総子（松村みね子の娘）との別れという個人的な痛手を経験していました。こうした精神的な危機からの脱却が、本作の創作の大きな動機の一つとなっています。物語に登場する向日葵のような少女は、後に堀の婚約者となり、『風立ちぬ』のヒロインのモデルとして知られる矢野綾子です。彼女との出会いは、作品に新たな光をもたらしました。

一方、片山総子もまた、堀の初期作品のモデルとされていますが、堀との関係に関する周囲の噂が彼女の縁談に影響を与えたことから、次第に距離を取るようになったと一般的には考えられています。しかし、総子の結婚時期などから、彼女もまた堀を愛していたのではないかという説もあり、堀の失恋の真相については不明な点も多いです。

軽井沢という舞台

作品の舞台である「K村」、すなわち軽井沢は、堀辰雄にとって特別な場所でした。彼はここで療養し、多くの作品を生み出しています。『美しい村』に描かれる主人公「私」の散歩コースは、堀自身が軽井沢滞在中に実際に歩いた道を基にしています。つるや旅館を起点とした愛宕山、旧碓氷峠、サナトリウム、そして水車の道という四つの道筋が詳細に描かれています。これらの道沿いには、福音教会、二手橋、室生犀星文学碑、旧軽井沢ヴィラ（かつてのサナトリウム）、軽井沢聖公会（ショーハウス）、聖パウロカトリック教会など、実在の場所や、かつて存在した場所が織り込まれており、物語にリアリティを与えています。特に水車の道は、『風立ちぬ』の終章にも登場する重要な場所です。

あらすじの概要

物語は、傷心を抱えた小説家「私」が、避暑地である軽井沢へ単身で訪れる場面から始まります。彼は過去の悲しい別れをテーマにした小説を書こうと考えていましたが、美しい自然の中を散策するうちに、次第に「花だらけの額縁のような」牧歌的な物語への構想を膨らませます。さまざまな村人との短い触れ合いや挿話が描かれる中、真夏の近づいたある日、「私」は向日葵のように眩しい少女と出会います。黄色い麦藁帽子をかぶったその少女との交流が深まるにつれて、「私」の心境に変化が訪れます。彼女と一緒に過ごしたいという気持ちから、村を去ることを思いとどまり、それまで避けていた、別れた女友達の別荘がある水車の道へも足を延ばすようになります。少女との親密な関係を育む中で、「私」は傷から回復し、新たな生気を取り戻していきます。

登場人物たち

本作には、主人公「私」の他に、軽井沢での滞在を通じて「私」が出会う様々な人物が登場します。ドイツ人の老嬢たち、宿屋の主人一家、サナトリウムの老医師レイノルズ博士、峠の子供たち、気違いの母親を持つ木樵りの小娘とその父親など、彼らとの短い交流や観察が物語に彩りを添えています。中でも物語の後半において「私」の心を捉え、新たな希望となるのが、向日葵のように輝く少女です。これらの人物は、主人公の心象風景や物語の展開を織りなす上で重要な役割を果たしています。

作品の評価と解釈

『美しい村』は、堀辰雄の軽井沢文学の中でも特に高く評価されている作品の一つです。その繊細で美しい自然描写は、多くの批評家や作家から賞賛を受けました。丸岡明は、本作を堀の文学活動における一つの頂点と見なし、その精巧な構成と理知的な調和を指摘しました。三島由紀夫は、人物が自然の中に溶け込むような独自の描写と、堀によって作り出された「精緻な人工的な自然」を作品の核心と捉え、日本の小説における自然描写の重要性とその特性について論じています。前田愛は、作品が持つ「入れ子構造」や「風景のなかの小説」という実験的な試みに注目し、プルーストからの影響を認めつつも、『美しい村』がそれ以上の独自の価値を持つことを指摘しました。特に、少女の登場によって物語が「現在時の小説」へと転換し、風景が生命を吹き込まれるように描き出されている点を評価しています。本作は、傷からの回復と新たな始まりを描いた物語であると同時に、文学の創造過程をも内包した、多層的な魅力を持つ作品として、今なお多くの読者を惹きつけています。

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