蒲団 (小説)

蒲団（ふとん）

田山花袋による中編小説『蒲団』は、日本の近代文学史において、自然主義文学の重要な作品として、また「私小説」というジャンルの出発点の一つとして位置づけられています。この作品は、1907年（明治40年）9月号および翌年3月号の雑誌『新小説』に掲載され、1908年（明治41年）に刊行された『花袋集』に収められました。作者自身の体験をもとに、師事する若い女性弟子に対する中年男性の複雑な感情、特に抑えがたい性的な欲望や葛藤を赤裸々に描き出したその内容は、発表当時、文壇やジャーナリズムに大きな反響を巻き起こしました。特に、物語の最後に描かれる、去って行った弟子の痕跡に主人公が触れる場面は、その生々しい描写ゆえに今なお強い印象を残しています。

作品の背景と執筆

『蒲団』が誕生した背景には、日露戦争後の文学界における自然主義の大きな潮流がありました。島崎藤村の『破戒』（1906年）が世に受け入れられ、国木田独歩の作品集が好評を博す中で、田山花袋は自身の創作活動に行き詰まりを感じ、「私は一人取残されたような気がした」「何も書けない。私は半ば失望し、半ば焦燥した」と、その当時の心境を自著『東京の三十年』で吐露しています。こうした焦燥感の中で、花袋は『破戒』を強く意識しつつ、ドイツの劇作家ゲーアハルト・ハウプトマンの『寂しき人々』からも着想を得ながら、自身の女弟子との実際の関係性を基盤として『蒲団』の筆を進めました。自己の恋愛体験を小説の主題とする試みは、森鴎外の『舞姫』に先行例がありますが、『蒲団』のように、師弟関係にある年下の女性への片思いと、それに伴う性的な苦悶をこれほどまでに具体的に描いたことは、当時の読者や批評家に強い衝撃を与えることとなりました。

あらすじ

物語は、34歳ほどで妻子を持つ作家、竹中時雄のもとに、文学を志す女学生、横山芳子が弟子入りを志願してくる場面から始まります。最初は気が進まなかった時雄でしたが、芳子との書簡のやり取りを通じてその文才に将来性を見出し、師弟関係を結びます。芳子は上京し、時雄のもとで文学を学び始めますが、時雄は次第に芳子に惹かれていきます。傍目には仲睦まじい師弟に見えましたが、そこに芳子の恋人である田中秀夫も彼女を追って上京してきます。時雄は、芳子と秀夫の交際を阻止し、芳子を自分の近くに置くため、彼女を自宅の二階に住まわせることにします。しかし、時雄の意に反し、芳子と秀夫の関係は時雄が想像していた以上に深まっていきます。激しい嫉妬と怒りに駆られた時雄は、ついに芳子を破門し、彼女を父親のもとへ帰郷させてしまいます。物語の結末、時雄は芳子が去った後の二階の部屋に一人佇みます。そこには彼女の使っていた品々が残されています。時雄は机の引き出しを開け、古い油の染みたリボンを取り出して匂いを嗅ぎます。さらに、芳子が日常的に使用していた夜着の、特に襟のビロード部分が目立って汚れているのに気づき、そこに顔を押し当てて、芳子の残り香を心ゆくまで嗅ぎます。この行為を通じて、性的な欲望と、喪失による悲哀、そしてどうすることもできない絶望感が、たちまち時雄の胸を襲います。最後に、彼は芳子が普段使っていた蒲団を敷き、その上に夜着をかけ、冷たく汚れたビロードの襟に顔を埋めて激しく泣くのです。

文学史上の位置づけと影響

『蒲団』は、作者自身の内面や体験を素材とし、自己の赤裸々な告白を通じて真実を描き出そうとする「私小説」というジャンルの源流にある作品と広く認識されています。この「自己暴露」的な手法は、その後の日本の小説に大きな影響を与え、私小説は日本近代文学の一つの大きな潮流を形成しました。しかし、私小説の本格的な始まりを『蒲団』ではなく、1913年（大正2年）に発表された近松秋江の『疑惑』や木村荘太の『牽引』に見るべきだという平野謙の説もあり、文学史的な位置づけには多様な見方があります。発表後、小栗風葉は本作の主題である「中年の恋」に触発されて『恋ざめ』を執筆するなど、同時代の作家にも影響を与えました。田山花袋自身も本作の成功により、その後約3年間は文壇の中心的な存在となりましたが、その赤裸々な自然主義的描写は、当時の一般的な読者層には必ずしも広く受け入れられたわけではなかったとされています。花袋と親交の深かった島崎藤村も、後に自身の姪との関係を描いた衝撃的な小説『新生』（1919年）を発表しており、両作家の自己暴露的な作風は互いに影響し合ったとも考えられます。興味深いことに、両作家はその後、より日常的な出来事を淡々と描く方向へと作風を変化させていきました。

モデルと批評

『蒲団』に登場する主要人物にはモデルが存在します。横山芳子のモデルは、実際に田山花袋に師事していた岡田美知代、田中秀夫のモデルは岡田美知代の恋人であった永代静雄であるとされています。作品の高い世評は、モデルとなった彼らのその後の人生にも影響を与えたと言われています。作品に対する批評は、発表当時から現在に至るまで様々な角度から行われています。発表直後の雑誌『早稲田文学』に掲載された合同書評の中で、島村抱月は本作を「肉の人、赤裸々の人間の大胆なる懺悔録」と評し、その告白的な性格を高く評価しました。一方、戦後の批評家である中村光夫は、著書『風俗小説論』（1950年）において、『蒲団』に見られる作者と主人公の同一視、主観的な吐露に終始する傾向、狭い読者層、作者が文学を演じる必要性といった、私小説が抱えがちな欠陥が本作にはっきりと見て取れると批判的に論じました。また、現代の批評家である大塚英志は、芳子という人物を、文学によって「仮構の私」を生きようとした存在として捉え、日本の近代文学、特に私小説が、ある種の「キャラクター小説」としての側面を持っていた可能性を示唆するなど、新しい視点からの議論も展開されています。

後世への展開

発表から一世紀以上の時を経ても、『蒲団』は日本近代文学を論じる上で避けて通れない重要な作品であり続けています。2024年には、本作を原案とした映画が公開され、物語の舞台を明治から令和へと移し、主人公の職業を脚本家にするなど、現代的な翻案がなされました。これは、この作品が描くテーマが時代を超えた普遍性を持つこと、そして後世に与え続ける影響の大きさを物語っています。オンラインでは、青空文庫で作品本文を無料で読むことができるほか、関連する研究論文や映画公式サイトなどが公開されており、多角的な視点から『蒲団』に触れる機会が提供されています。

もう一度検索