蔦紅葉宇都谷峠

『蔦紅葉宇都谷峠』

『蔦紅葉宇都谷峠』（つたもみじ うつのや とうげ）は、安政3年（1856年）に江戸の市村座で初めて上演された歌舞伎の演目です。二代目河竹新七、後に黙阿弥として知られる作者によって、金原亭馬生による人情噺を基に創作されました。この作品は、世話物と呼ばれるジャンルに分類され、『文弥殺し』（ぶんや ごろし）や単に『宇都谷峠』（うつのや とうげ）という通称で広く知られています。特に「因果同士の悪縁が、殺すところも宇都谷峠、しがらむ蔦の細道で、血汐の紅葉血の涙、この引明けが命の終わり、許してくだされ文弥殿」という名科白は非常に有名になり、この科白に含まれる「許してくだされ何々殿」というフレーズは、当時の流行語となるほどの強い影響力を持ったと言われています。

作品の特徴と構成

この狂言は全五幕一場から構成されています。物語は、初演された時点で既に他の歌舞伎作品や実際の事件によって確立されていた、少なくとも三つの異なる「世界」（物語の背景設定や登場人物の関係性）を巧みに取り込んで展開されます。

1. 『浮世柄比翼稲妻』（鞘当）の世界: 「佐々木家のお家騒動」を巡る設定。
2. 『国姓爺姿写真鏡』（古今彦惣）の世界: 「傾城古今と黒木屋彦惣の情話」に関連する設定。
3. 『大岡政談』の世界: 享保27年（1727年）に実際に発生した「白木屋お熊事件」に基づいた設定。

これらのうち、『鞘当』と『古今彦惣』は、いずれも四代目鶴屋南北が創作した歌舞伎狂言から借用されており、『白木屋お熊事件』は現実の事件を基にしています。

本作の中心となる登場人物は、全く異なる性格と境遇を持つ二人の男性、盲目の按摩（あんま）である文弥と、悪党である堤婆の仁三（だいばの にさ）です。物語の筋立ては非常に複雑で多岐にわたります。さらに、黙阿弥は主役の二役を四代目市川小團次が早替り（一人の役者が短時間で別の役に扮すること）で演じることを想定して脚本を書いています。こうした複雑さから、初演後、この作品が全編を通して上演される機会は極めて稀となり、通常は文弥と伊丹屋十兵衛の関わりが描かれる序幕と大詰めの部分のみが上演されるのが一般的となりました。例外として、昭和44年（1969年）7月に国立劇場で十七代目中村勘三郎が文弥と仁三の二役を演じて通し狂言として復活上演された記録がありますが、これは現在まで唯一の事例とされています。

あらすじ

物語は、貧しい家庭に生まれた娘お菊が、幼い弟の文弥を誤って石に落としてしまい、そのために彼が視力を失うという出来事から始まります。罪滅ぼしのため、お菊は吉原に身売りし、百両という大金を貯めます。彼女はその金を文弥に渡し、京へ上って盲人の最高位である座頭の官位を得ることを願います。

文弥が旅の途中、鞠子宿に立ち寄った際、宿で偶然居合わせた胡麻の灰（旅人を騙して金品を奪う者）である提婆の仁三が、文弥が持つ大金に目をつけますが、同じく宿に滞在していた伊丹屋十兵衛によってその企みは阻止されます。

文弥と十兵衛が共に宇都谷峠まで来た時、十兵衛は文弥が大金を持っていることを初めて知ります。十兵衛は自らの主人の借金返済のため、文弥に借金を申し出ますが断られます。一度は思いとどまった十兵衛でしたが、結局は文弥を殺害して金を奪ってしまいます。しかし、その一部始終を峠の辻堂に隠れていた仁三が見ていました。

実は、十兵衛の主人である尾花六郎左衛門と文弥の父である小兵衛は、お家騒動を巡る旧敵同士でした。そして、十兵衛が必要としていた借金もまた、元をたどればそのお家騒動に深く関わる金子だったのです。このような因果関係を知らないまま、十兵衛は奪った百両を元手に江戸で居酒屋を開き平穏な生活を送ろうとしますが、次第に殺害した座頭（文弥を暗示）の亡霊に悩まされるようになります。さらに、宇都谷峠で見張り、十兵衛が落とした煙草入れを証拠として拾っていた提婆の仁三による恐喝が始まります。追い詰められた十兵衛は、口封じのために妻おしず（後に傾城古今となる）を手にかけた後、仁三を鈴ヶ森に誘い出して殺害を図ります。しかし、そこに現れた古今や彦三から驚くべき事実（おそらく因果関係など）を知らされ、自らの行いが招いた因果の恐ろしさに直面し、切腹して果てるという結末を迎えます。

主な登場人物と配役

初演時（安政3年）の配役
按摩文弥、堤婆の仁三：四代目市川小團次（二役早替り）
伊丹屋十兵衛：初代坂東亀蔵
文弥姉お菊、十兵衛女房おしず 後に 傾城古今：四代目尾上菊五郎
佐々木桂之助、彦三：五代目坂東彦三郎
尾花才三郎：初代河原崎権十郎
文弥妹おいち：十三代目市村羽左衛門

後代の主な当たり役
文弥、仁三：六代目尾上菊五郎、十七代目中村勘三郎 など
伊丹屋十兵衛：初代中村吉右衛門、八代目松本幸四郎 など

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