蟻の街

蟻の街の物語：戦後の混乱期を生き抜いた人々の軌跡

「蟻の街」という名は、第二次世界大戦終結後の混乱期、およそ1950年（昭和25年）頃に、現在の東京都台東区、隅田公園の隅田川沿い（言問橋の近く）に自然発生的に生まれた集落と、そこで活動した労働者の互助組織「蟻の会」を指します。戦災で家族や住まいを失った人々が、廃品回収を生業として互いに助け合いながら暮らしていた様子が、勤勉な蟻にたとえられ、マスコミによってそう呼ばれるようになりました。文献によっては「アリの街」「アリの町」とも表記されます。

この集落があった場所は、元々は製材工場の跡地でした。元ヤクザの小澤求氏がこの土地を借り受け、職のない人々を日雇い労働者（通称「バタヤ」）として雇い入れ、ガラス、金属、紙などの廃品を回収・再生業者へ送る事業を始めました。当時のバタヤは廃品の買い取り価格が低く、貧しい生活を強いられていましたが、小澤氏は適切な報酬を支払うことを目指しました。小澤氏の廃品仕切場は、労働者とその家族が共に暮らす生活共同体となり、他の地域に点在していた無許可のバタヤ集落の一つと見なされていました。

しかし、廃品回収の報酬などを巡るトラブルや、地域住民、さらには行政との間に摩擦が生じ、東京都は隅田公園からの集落撤去を模索し始めます。このような状況の中、小澤氏は法的な解決を目指し、法律事務所に相談します。そこで出会ったのが、後に『蟻の町のマリア』を執筆することになる松居桃楼氏でした。松居氏は小澤氏の理想に共感し、法律事務所を辞めて蟻の街に住み込み、小澤氏の相談役となります。こうして小澤氏を初代会長とする「蟻の会」が結成されました。

蟻の街が都有地を占拠しているという状況は、常に強制立ち退きの危機を伴いました。この課題を乗り越えるため、松居氏は、孤児救済で知られていたポーランド出身の修道士ゼノ・ゼブロフスキー氏と、蟻の街で献身的な奉仕活動を行っていた北原怜子氏に協力を求め、クリスマスの開催や教会の建設といった活動を進めます。

特に、松居氏がマスコミに語ったカトリック教会の建設構想は、新聞記事となって大きな反響を呼びました。この記事を見た東京都の担当者は、都有地での無許可建設は困るとゼノ修道士に注意を与えます。教会を設立する権限のない一介の修道士であったゼノ氏と担当者のやり取りの中で、担当者は子供博覧会開催の予定があるため教会は建てられないと説明しますが、最終的には博覧会終了後の翌年5月以降であれば設立を許可するという念書を作成し、ゼノ氏に手渡します。ゼノ氏はこの念書を小澤氏に託し、小澤氏はこれを大切に保管しました。

一方、北原怜子氏の活動も、松居氏のマスコミへの働きかけにより「蟻の街のマリア」として広く知られるようになります。肺結核を患いながらも、北原氏は蟻の街の子供たちのために尽くしました。一度は療養のため街を離れますが、余命幾ばくもないと知ると再び蟻の街に戻り、最後まで住民として子供たちと共に過ごし、その生涯を閉じました。

北原氏の子供たちへの深い愛情に心を動かされた小澤氏は、子供たちの勉強部屋を確保するため、2階建ての家屋を建設します。これに対し、東京都から取り壊し命令が出されますが、小澤氏はゼノ修道士から託された念書を思い出し、家屋の屋上に大きな十字架を掲げました。こうして、1951年（昭和26年）5月13日、「蟻の街の教会」が完成します。その後、1954年（昭和29年）には東京大司教の許可を得てミサも執り行われるようになり、松居氏の即興的なアイデアから始まった教会建設は、ゼノ氏の尽力もあって現実のものとなりました。教会活動を通じて、ゼノ氏や北原氏、そして小澤氏の働きかけにより、多くの蟻の街住民がカトリックの洗礼を受けることとなり、その中には当初懐疑的だった松居氏も含まれていました。

東京都は様々な手段で蟻の街の撤去を試みますが、他の不法占拠と異なり、蟻の街は正式な借地の上に成り立っていたため、その立場は容易ではありませんでした。しかし、成り立ちから5年後、東京都は代替地を斡旋することを条件に立ち退きを要求します。不法占拠ではないため無償提供を求めることも可能な立場でしたが、小澤氏は隅田公園を元の姿に戻したいという思いから、この要求に同意しました。ただし、この時点では代替地はまだ具体的に決まっておらず、街の住民数も増加し、移転先の選定は難航していました。

代替地の提示が遅れることに業を煮やした松居氏は、東京都の担当部長に直接交渉に臨みました。この時、松居氏は北原怜子氏が愛用していたロザリオと、彼女の著書『アリの町のこどもたち』を携えていました。松居氏は北原氏の命がけの活動や、蟻の街が持つ経済的な役割、人々の生活について熱心に訴えました。担当部長は北原氏の著書を読み、蟻の街を訪問して子供たちの歌声を聞き、「立派な役人であると同時にりっぱな人間でありたい」と答え、代替地問題の解決に向けた協力を約束します。

その結果、東京都が提示した代替地は、東京湾の8号埋立地（現在の潮見）におよそ5000坪という広大な土地でした。しかし、敷地代2500万円を即金で支払うという条件は、蟻の会にとって厳しいものでした。蟻の会は移転後の建設費なども考慮し、敷地代は1500万円を5年分割とすることを求め、交渉は難航しました。しかし数ヵ月後、松居氏が再び都庁に呼ばれた際、担当係官の机の上に北原氏の著書が置かれており、蟻の会の要求通りの「敷地代1500万円、5年間分割払い」という条件が提示されました。これは奇しくも蟻の会設立からちょうど8年目にあたる1958年（昭和33年）1月20日の出来事でした。北原氏はそのわずか3日後に帰天されました。

こうして、1960年（昭和35年）6月4日、蟻の街は隅田公園から江東区の8号埋立地（現在の潮見）へと移転を果たしました。新しい敷地は16000㎡と、旧地の10倍にも及びました。新・蟻の街では、それまでの手作業中心の廃品回収から、トラックやベルトコンベヤを用いた機械化が進みました。公衆浴場や公園、保育室などの福利厚生施設も整備され、住民の生活環境は大きく改善されました。蟻の街教会もカトリック枝川教会となり、後にカトリック潮見教会と名称を変更し、現在に至ります。

しかし、移転先の8号埋立地は市街地から距離があり、廃品回収業には必ずしも適した場所ではありませんでした。また、日本の高度経済成長が進むにつれて、多くの住民が他の仕事を見つけ、街を離れていきました。潮見はその後、京葉線が開通し駅ができ、マンションが立ち並ぶなど大きく変貌しました。かつての蟻の街を偲ばせるものとして、形を変えたカトリック潮見教会と、その南側に立つ「蟻の会事務所」が残されています。事務所は今後、貧しい人々のための「難民のための一時宿泊所」としての役割を担う計画があると言われています。

現在、旧蟻の街があった隅田公園内の築山付近には、台東区役所によって設置された説明板があり、この街の存在を伝えています（2021年3月設置）。また、区民有志で結成された「蟻の街実行委員会」が、当時の写真や手紙などの資料を保管し、この歴史を後世に語り継ぐ活動を行っています。

（参考資料：田中哲夫「蟻の町のマリア 極貧に捧げた 28歳の青春」『昭和30年代の風景 東京慕情』、桑原一利『天使のゼノさんー日本二十六聖人の祈りー』、カトリック潮見教会ウェブサイトなど）

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