誘惑されるアダムとイヴ (ティントレット)

ティントレット作「誘惑されるアダムとイヴ」

ティントレットの「誘惑されるアダムとイヴ」は、1550年から1553年にかけて制作された油彩作品です。この絵画は、旧約聖書の創世記に記された、アダムとイヴが知恵の木の果実を食べるという有名な物語を題材としています。ルネサンス期のヴェネツィア派を代表する巨匠ティントレットは、この主題をマニエリスムの特徴を色濃く反映させつつ、独自の解釈で表現しています。

主題の背景

創世記によれば、神はエデンの園にアダムを創造し、「園のどの木の実も食べて良いが、知恵の木の実だけは食べてはならない」と命じました。その後、アダムの肋骨からイヴを創造し、彼の妻としました。しかし、蛇にそそのかされたイヴは禁断の知恵の木の実を食べ、さらにアダムにも与えてしまいます。その結果、二人は自分たちが裸であることを恥じ、イチジクの葉で体を覆いました。神はこれを見て、二人が楽園を追放されることとなりました。

制作の経緯

本作は、サンティッシマ・トリニタ同信会館のために制作された連作の一部です。同信会は、ヴェネツィアの税関庁舎に本部を置くドイツ騎士団によって設立されました。1547年にフランチェスコ・トルビドに依頼された同信会館の装飾計画は、1550年にティントレットに引き継がれました。ティントレットは創世記の物語に基づき、「動物の創造」、「イヴの創造」、「父なる神の前のアダムとイヴ」、「誘惑されるアダムとイヴ」、「アベルの殺害」という5点の連作を制作しました。これらの作品は、マニエリスムの典型的な作例として知られています。

作品の特徴

この絵画では、イヴが知恵の木から実を採り、アダムを誘惑する様子が描かれています。画面左前景に描かれたアダムは、やや後ろ向きで、戸惑いを見せています。一方、イヴは画面中央、やや奥まった位置で、知恵の木に寄りかかりながら、アダムに禁断の果実を差し出しています。イヴの腰にはイチジクの葉が巻かれており、すでに果実を食べた後であることが分かります。背景の右側には、楽園追放の場面が小さく描かれており、天使によってエデンの園から追放されるアダムとイヴの姿が描かれています。この楽園追放の場面は異時同図法的に描かれており、時間の流れが表現されています。

画面構成の中心となるのはアダムの像であり、奥行きを強調する上で重要な役割を果たしています。アダムのポーズは、古代ギリシャの彫刻「瀕死のガリア人」に影響を受けており、そのポーズを反転させて使用していることが指摘されています。人物配置は入念に計算されており、アダムとイヴのポーズと遠近法の消失点が巧みに対比されています。また、画面右側の追放の場面は、遠近法の線に沿って描かれており、物語の進行を視覚的に示しています。美術史家のフェデリーコ・ゼーリは、ティントレットがサン・マルコ聖堂のアトリウムにある13世紀のモザイクに着想を得た可能性を指摘しています。さらに、この絵画では、楽園の瑞々しい風景が、人物の精神状態を際立たせる効果を生み出しています。ティントレットは、風景表現にも優れた才能を示しており、その成果が本作にも表れています。

なお、この絵画は、制作当時から幅が45センチ、高さが3センチほど切り詰められています。

作品の来歴

この作品に関する最初の言及は、1584年に美術評論家のラファエロ・ボルギーニによって行われました。その後、絵画を所蔵していたサンティッシマ・トリニタ同信会館は移転を余儀なくされます。1629年から1630年にかけてイタリア全土を襲ったペストの大流行により、ヴェネツィアは人口の約3分の1を失いました。その後、多くの教会が建設され、その中には聖母マリアに捧げられたサンタ・マリア・デッラ・サルーテ聖堂も含まれます。この聖堂の建設のために、同信会館は取り壊され、近隣に再建されることになりました。しかし、1805年のプレスブルクの和約によって、ヴェネツィアがナポレオン支配下のイタリア王国に併合されると、政府の命令で多くの教会、修道院、同信会が廃止されました。この時、同信会も廃止され、ティントレットの連作は解体され、他の場所に移されました。「誘惑されるアダムとイヴ」と「アベルの殺害」は1812年に、また「動物の創造」は1828年にアカデミア美術館に収蔵されました。連作のうち「イヴの創造」はおそらく盗難または紛失によって現存せず、「父なる神の前のアダムとイヴ」は断片のみがウフィツィ美術館に現存しています。

後世への影響

本作は、制作当初から高い評価を得ていたことが、ボルギーニ以降も、カルロ・リドルフィ、マルティニオーニによって言及されていることからも分かります。1720年にはアンドレア・ズッキによって、1833年にはアントニオ・ヴィヴィアーノによって、本作の複製版画が制作されています。これらの複製版画は、作品が美術館に収蔵された後に、切り詰められた状態であることを示しています。

この作品は、ティントレットの画業の中でも重要な位置を占めており、彼の卓越した技巧と深い解釈が融合した傑作として、今日まで多くの人々を魅了し続けています。

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