酒は涙か溜息か

「酒は涙か溜息か」は、1931年（昭和6年）9月に日本コロムビアからリリースされた昭和歌謡の金字塔です。この曲は、作曲家・古賀政男、作詞家・高橋掬太郎、そして歌手・藤山一郎という、後に日本の音楽界を牽引する三人にとって、文字通り出世作となる大ヒットを記録しました。

概要

この楽曲が特筆されるのは、その革新性にあります。当時、まだ日本では馴染みのなかったクルーナー唱法、すなわちマイクロフォンに優しく語りかけるように歌うスタイルを初めて導入した作品として、日本の歌謡史に新たな扉を開きました。リリース当時、古賀政男は才能を注目され始めたばかりの新進気鋭の作曲家、高橋掬太郎は遠く北海道で地方新聞の記者を務めており、一方の藤山一郎は東京音楽学校（現在の東京芸術大学音楽学部の前身）で正統なクラシック音楽を学ぶ学生でありながら、その将来を嘱望されていました。

世界恐慌の余波を受け、日本全体が深刻な不況に見舞われていた時代にもかかわらず、「酒は涙か溜息か」は発売されるやいなや、社会現象ともいえるほどの大ヒットとなりました。当時の国内における蓄音機の普及台数が約20万台であったにもかかわらず、この曲は最終的にその4倍にも及ぶ80万枚という驚異的なセールスを記録したと伝えられています。この歌の圧倒的な人気は、やがて映画界にも波及し、松竹映画『想い出多き女』や新興キネマ『酒は涙か溜息か』として映像化され、さらに多くの人々に親しまれることとなりました。

制作の背景

この名曲の誕生は、1931年（昭和6年）の夏にさかのぼります。きっかけとなったのは、北海道に住む新聞記者だった高橋掬太郎が、日本コロムビアの文芸部宛に送った一枚の詩でした。文芸部から作曲を依頼された古賀政男は、都々逸のような七五調の短い詩の世界観をいかに音楽で表現するか、当初は非常に苦心したといいます。彼は毎日ギターを手に、三味線音楽や民謡などを弾きながら試行錯誤を重ねました。

一方、歌唱を担当することになった藤山一郎は、古賀政男とはその前作『キャンプ小唄』で既にコンビを組んでいました。しかし、「酒は涙か溜息か」の楽譜を見た時、音域があまりにも低く、従来のクラシック的な発声法では容易に歌いこなせないと感じたそうです。当時、アメリカに滞在していた姉から、マイクロフォンに口を近づけ、ささやくように柔らかく歌うクルーナー唱法という新しい歌唱スタイルがあることを聞いていた藤山は、日本ではまだ全く知られていなかったこの歌い方を、この曲のレコーディングで試みることを決意します。正統な声楽技術を独自に解釈・応用することで、彼はこの曲のために最適化された、日本におけるクルーナー唱法の先駆けとなる歌唱スタイルを確立したのです。

エピソード

作詞家・高橋掬太郎がこの詩を書いた背景には、心温まる、そして切ない物語が隠されています。詩の元になったのは、高橋が日頃から懇意にしていた芸妓・千成が、ある事情で芸妓を辞めることになった際の送別会でした。その席で高橋は即興的に扇にこの詩を書きつけ、彼女に餞別として贈ったといいます。後に千成はカフェを経営し、この「酒は涙か溜息か」のモデルになった女性として評判を呼び、店は大いに繁盛したそうです。しかし、1934年（昭和9年）の函館大火で、残念ながら店も、思い出の扇子も共に焼失してしまいました。失意の底に沈んだ千成は、まもなく病に倒れ、若くしてこの世を去ったと伝えられています。

ちなみに、このシングル盤のB面には、同じく作詞・高橋掬太郎、作曲・古賀政男による楽曲「私此頃憂鬱よ」が収録されており、歌唱は当時本格的に流行歌手としての活動を始めたばかりの、後の大歌手・淡谷のり子が担当しています。

関連情報

「酒は涙か溜息か」の空前のヒットを受けて、その人気にあやかろうと、類似したタイトルや雰囲気を持つ楽曲がいくつか登場しました。

『夢は涙か思出か』: ニッポンレコードからリリースされたこの曲に対し、作曲者の古賀政男は著作権侵害であるとして、発売元のニッポンレコードと、さらに朝鮮語の歌詞で発売していた帝国発明社を相手取り訴訟を起こしました。結果、1934年（昭和9年）4月には東京地方裁判所が古賀の主張を認め、両社による著作権侵害が確定しています。
『酒は涙よ溜息よ』: 太平蓄音機から発売されたこの曲は、作詞・英はじめ、作曲・服部良一、歌唱は黒田進（楠木繁夫の変名）でした。後に服部良一は自身の自伝の中で、この曲は会社からの指示で、気が進まないまま作曲したものであると回想しています。

時代を超えて愛されるこの名曲は、現在でも多くの歌手によってカバーされています。例えば、松原のぶえ、大川栄策、天童よしみ、氷川きよし、秋元順子、三山ひろしといった様々なジャンルのアーティストが、それぞれの解釈でこの歌を歌い継いでいます。

「酒は涙か溜息か」は、昭和初期という激動の時代に生まれ、人々の心に深く響き、日本の歌謡史における重要な位置を占める不朽の名作と言えるでしょう。

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