鏡の前の女

ティツィアーノの傑作『鏡の前の女』

『鏡の前の女』（伊: Donna allo specchio, 仏: La Femme au miroir, 英: Woman with a Mirror）は、ルネサンス期のヴェネツィア派の巨匠、ティツィアーノ・ヴェチェッリオが1515年頃に制作した油彩画です。パリのルーブル美術館に所蔵されており、ティツィアーノ自身あるいは工房による複数の複製が存在することでも知られています。この絵画は、若い女性が鏡を見つめる姿を描いており、その解釈を巡って様々な議論がなされています。

作品の概要

この絵画は、化粧をする若い女性の胸像を描いています。女性は、男性に持たせた2つの鏡を使って、自分の髪型の仕上がりを確認しています。ティツィアーノは、フランドル起源の凸面鏡をモチーフとして使用しており、色彩表現の高さや調和のとれた構図は、画家の若き日の傑作と評価されています。しかし、この絵画の制作意図は明確ではなく、肖像画、風俗画、あるいは寓意画として解釈できるため、研究者の間で様々な意見が飛び交っています。

描かれている場面

絵画には若い女性と男性の2人が登場しますが、画面の大部分を占めているのは若い女性です。彼女は腰を右に向け、上半身を左に回転させ、顔は4分の3正面を向いています。彼女の瞳は、男性が持つ小型の鏡を見つめています。右手には髪の毛を束ねて持ち、左手には小瓶を持っています。この小瓶には、当時ヴェネツィアで髪の脱色に使われていたローションが入っていると考えられています。

女性の背後には髭を生やした男性が立っており、長方形の鏡を見せると同時に、楕円形の凸面鏡を持ち上げています。この凸面鏡には、女性の背中と男性の輪郭、そして部屋の内部が映し出されています。窓から差し込む光が女性の後頭部を照らし出し、部屋の奥にはベッドのような長方形の家具が置かれています。しかし、鏡には女性の左手が見えません。

構図の分析

絵画の構図は古典的であり、2人の人物と楕円形の鏡が画面を埋め尽くしています。画面は、あたかも窓から見た風景のように構成され、曲線が多用されているのが特徴です。女性の顔や袖、肩や襟の曲線が互いに対応し、調和を生み出しています。構成線は主に手と目で構成され、水平線と斜線が画面に動きを与えています。また、女性の身体の回転運動と、鏡に映る反射によって、画面全体が螺旋状に構造化されています。

制作年代の考察

絵画には日付がなく、制作年の推定は困難です。ティツィアーノは制作中に何度も修正を加えたため、完成までに時間がかかったと考えられています。かつては1523年以降に制作されたとされていましたが、現在では1515年頃という説が有力です。一部の研究者は、1512年から1515年の間という説を唱えています。制作年代の特定には、画家の他の作品との比較や、描かれた様式、テーマなどが考慮されています。

様々な解釈

肖像画としての解釈

絵画に描かれた女性が実在の人物であるという考えから、肖像画としての解釈がなされてきました。モデル候補としては、モデナ＝レッジョ公爵の愛人ラウラ・ディアンティや、フェデリコ2世・ゴンザーガの愛人イザベラ・ボスケッティなどが挙げられています。しかし、これらの説は確証がなく、モデルの身分ははっきりしていません。

かつては、この絵画がティツィアーノの自画像と愛人を描いたものだという説もありました。しかし、男性の顔と自画像とが一致しないため、現代の研究者はこの説を否定しています。また、アルフォンソ1世・デステと愛人ラウラ・ディアンティを描いたとする説も存在しましたが、こちらも否定されています。そのため、現在では肖像画というより、風俗画や寓意画として捉えられることが一般的です。

寓意画としての解釈

鏡は真実と誠実さの象徴であるとともに、美と若さの儚さを表す象徴とも解釈されています。『鏡の前の女』では、鏡が女性の美しさや若さを強調する一方で、ヴァニタス（空虚）の概念を示唆しています。鏡は人を惑わし、美の確実性と満足感で人の心を奪うと考えられていました。また、女性が2つの鏡で自分を見ていることは、時の経過を強調しています。ヴァニタスは、人間の労働や財産の無益さを示しており、ティツィアーノは美しさや身体的な特徴など、人間の状態の一時的な性質について問いかけていると考えられます。

エルヴィン・パノフスキーは、この作品をジョルジョーネの『老女』と比較し、2つの絵画が「私はかつてあなただった。あなたはいずれ私になるだろう」という死の運命を想起させると指摘しています。鏡の黒い表面は、死の概念を含んでいると考えられています。また、ティツィアーノは同時期に描いた『虚栄』で、当初の構図にはなかった鏡を追加しており、寓意的な意味をさらに強調しています。女性の物思いにふける視線は、絵画の深い意味を伝えていると言えるでしょう。

来歴

この作品は、最初にマントヴァのゴンザーガ家のコレクションに所属していました。1627年に、コレクションはイングランド国王チャールズ1世に売却されましたが、チャールズ1世の処刑後、オリバー・クロムウェルによってコレクションは売却されました。その後、絵画はフランスのコレクションを経て、1662年にルイ14世の所有となりました。そして、フランス革命後、ルーブル美術館に収蔵され、現在に至っています。

修復の歴史

絵画は何度か修復を受けており、1940年にはルーブル美術館で大規模な修復が行われました。修復によって色彩が鮮やかになり、男性の本来の姿が復元されました。

複製の存在

『鏡の前の女』には多くの複製が存在します。プラハ城美術館とカタルーニャ美術館に所蔵されている複製は、ルーブル美術館のオリジナルに非常に近いとされています。プラハ城美術館の複製はより古く、ティツィアーノ自身が制作した可能性も指摘されています。一方、カタルーニャ美術館の複製は、ルーブル美術館版よりも後年の作品とされています。

作品の影響

この絵画は、ティツィアーノに近い多くのヴェネツィアの画家に影響を与えました。また、構図は版画にもなり、後の画家たちにも強いインスピレーションを与えました。19世紀のラファエロ前派の画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティは、この作品に触発されて『オーレリア』や『レディ・リリス』を描きました。

まとめ

ティツィアーノの『鏡の前の女』は、肖像画、風俗画、そして寓意画として多様な解釈が可能な作品です。その構図や象徴性、そして制作の背景には、画家の深い洞察力が感じられます。ルーブル美術館を訪れた際には、ぜひその美しさを堪能してみてください。

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