関東大震災中国人虐殺事件

関東大震災 中国人 虐殺 事件

1923年9月1日に発生した関東大震災は、日本の首都圏に未曽有の被害をもたらしました。この大混乱の中、事実無根の流言飛語が飛び交い、多くの人々が殺傷される事件が発生しました。その一つが、日本に滞在していた多くの中国人、主に労働者や留学生が、日本の軍隊、警察、そして一般市民によって虐殺された「関東大震災中国人虐殺事件」です。

この事件で特に知られているのは、東京府南葛飾郡大島町（現在の東京都江東区の一部）で発生した集団虐殺です。ここでは、出稼ぎなどで来日していた数百人もの中国人労働者が、無差別に殺害されました。犠牲者数は諸説ありますが、200人近くから400人以上にのぼると伝えられています。また、中国人留学生で労働者支援活動を行っていた王希天（おうきてん）氏が、警察の依頼を受けた軍によって殺害されたとされる「王希天事件」も、この時期の代表的な中国人虐殺事件として挙げられます。その他、横浜でも150人もの中国人が殺害されたという証言もあります。

さらに、これらの事件は中国人を標的としたものだけでなく、当時の混乱の中で流布した「朝鮮人が暴動を起こしている」といったデマにより、朝鮮人と誤認されて殺害された中国人も多数含まれていました。確認されているだけでも、この一連の事件による中国人の犠牲者は、全体で少なくとも600人以上に達するとされています。

震災後の混乱期、自警団による更なる虐殺を防ぐため、多くの中国人や朝鮮人が保護という名目で旧習志野の捕虜収容所などに収容されました。9月17日には、中国人約1700人、朝鮮人3000人以上が収容されていた記録が残っています。

事件の真相が明るみに出たのは、帰国した中国人生存者たちが当時の惨状を伝え始めたことによります。特に、大島町での集団虐殺や習志野での収容生活、そして王希天氏の行方不明について生存者から語られました。当時、亀戸周辺には多くの中国人労働者がおり、王希天氏は神保町の中華YMCAで活動する傍ら、大島町に在日中国人労働者の共済会「僑日共済会」を設立し、会長として中国人労働者の権利向上に尽力していました。

これらの事件はすぐに国際的な問題へと発展しました。中国国内では、震災への義捐金を集めていた最中に突如として伝えられた同胞虐殺の報に、世論が激変しました。日本国内でも、自由法曹団などの組織が調査と事件の追及に乗り出しました。

しかし、日本政府は、この事件が甘粕事件（社会運動家の大杉栄らが憲兵隊に殺害された事件）をはるかに超える国際的な大問題となりかねない状況を前に、真相の隠蔽を決定しました。警察は、死体の身元が分からなくなるように焼却して川に流したり、事件の証人たちに圧力をかけたりするなど、組織的に隠蔽工作を進めました。また、王希天氏の殺害に関与した部隊の参謀格であった遠藤三郎氏は、王氏が釈放された後に行方不明になったとする虚偽の報告書を作成しました。

1923年12月には、中国政府から調査団（団長：王正廷）が来日しました。日本政府は王希天氏についてはあくまで行方不明として扱い、多数の中国人殺害による損害賠償について交渉に応じました。中国側の外交部長は当初、加害者の処罰と王氏遺族への賠償を強く求めましたが、調査団の真の目的は日本からの借款獲得にあり、事件についてはなるべく円満に解決したい意向だったとも伝えられています。

日本政府内にも、事件に対する国家責任を認識する動きはありました。1923年11月の外務省文書には、暴動における外国人被害に対し、官憲の保護義務と国家の賠償責任を推定する記述が見られます。中国からの調査団派遣などを受け、日本政府は1924年5月、「当時混乱の際、在留支那人の中にも不慮の災害を被りたる者少なからざるべしと思考する」とし、「支那人傷害事件慰藉金20万円責任支出の決定」を行った記録も残っています。しかし、その後の中国国内の内戦激化により交渉は中断し、賠償金が支払われることはありませんでした。現在に至るまで、日本政府がこの事件について公式に国家の責任を認めたことはありません。

事件の発覚は、1923年10月12日に上海港に入港した山城丸に多くの負傷した中国人生存者が乗っていたことから始まりました。彼らは大島町での惨劇や習志野での幽閉について証言し、特に大島町での虐殺の唯一の生存者とされる黄子連氏の証言は、メディアを通じて広く伝えられました。この船には王希天氏の友人で留学生の王兆澄氏が労働者に変装して乗り込んでおり、船中で調査を行い、上陸後すぐに記者会見を開いたことで、上海の新聞が一斉に報道し事件が大きく報じられるきっかけとなりました。

日本国内では、11月7日に『読売新聞』が中国人大量虐殺と王希天氏行方不明について報道しようとしましたが、印刷直前に検閲により記事が削除され、紙面が白紙のまま発行されるという異例の事態となりました。これは、震災後の五大臣会議で決定された隠蔽方針に基づくものでした。

事件の詳細については、警察や軍の当時の記録には食い違いが見られ、互いに責任を転嫁するような記述も存在します。しかし、後年の調査や研究により、大島町では軍や警察、自警団らが共謀あるいは連携して中国人労働者らを拘束し、銃殺や撲殺を行った状況が明らかになっています。警視庁の公式報告書には、大島町7丁目で300〜400名が軍及び自警団により銃殺または撲殺されたとの記述がある一方、陸軍の記録には、大島町8丁目で朝鮮人と確信した者ら200名を殺害したと記されています（この記録の一部は紛失）。

戦後、特に1970年代に入ってから、これらの中国人虐殺事件に関する研究が進展しました。研究者やジャーナリストによる資料の発掘、そして当時の関係者たちが重い口を開き始めたことが背景にあります。松岡文平氏や小川博司氏といった研究者が先駆的な業績を上げ、大島町事件や王希天事件に光を当てました。王希天殺害を目撃した兵士の日記が公表されたり、隠蔽工作に関わった遠藤三郎氏が証言を行ったりしたことも、真相解明に大きく寄与しました。ジャーナリストの田原洋氏は、遠藤氏との出会いを機に王希天事件の調査に取り組み、王氏が社会事業家であったことや、殺害実行を指示した人物などを特定するなど、この事件の研究を大きく前進させました。

関東大震災直後の混乱期に発生した虐殺事件としては、これまで権力犯罪である甘粕事件や亀戸事件、そして規模の大きさから朝鮮人虐殺事件が「三大虐殺事件」として語られることが一般的でした。中国人虐殺事件は、ともすれば「朝鮮人と間違えられた」という形で朝鮮人虐殺の一部として捉えられがちでした。しかし、大島町事件のように独自の性格を持つ大規模な虐殺があったこと、また「巻き添え」という見方自体が差別的であるとの観点から、この中国人虐殺事件を含めて「四大虐殺事件」と呼ぶべきだという見方が広まっています。さらに、方言のために朝鮮人と疑われ殺害された沖縄出身者の事件を加えて「五大虐殺事件」と呼ぶ場合もあります。

この事件は、震災という非常時下におけるデマの恐ろしさ、国家や権力による隠蔽、そして外国人やマイノリティに対する差別意識が引き起こした悲劇として、歴史に重い教訓を残しています。

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