阿部一族

森鷗外『阿部一族』

概要

『阿部一族』は、森鷗外が1913年（大正2年）に発表した短編小説です。江戸時代初期、肥後藩（現在の熊本県）で実際に起こったとされる阿部一族の悲劇を題材に、武士道における忠義と殉死のあり方、そして権力による抑圧を描いています。この作品は、実話に基づいた『阿部茶事談』を参考にしながらも、鷗外独自の解釈と文学的な筆致によって、人間の複雑な心理と社会の矛盾を浮き彫りにしています。

あらすじ

物語は、寛永18年（1641年）に肥後藩主・細川忠利が病に倒れる場面から始まります。忠利の死期が迫る中、家臣たちは次々と殉死を願い出ますが、老臣・阿部弥一右衛門は忠利から「生きて新藩主を助けよ」と遺言され、殉死を許されません。忠利の死後、多くの家臣が殉死する中、弥一右衛門は藩のために働き続けますが、周囲からは命を惜しんでいると中傷されます。それに耐えかねた弥一右衛門は、一族の前で切腹し、殉死します。

しかし、弥一右衛門の行動は藩の遺命に背いたとされ、阿部家は殉死者の遺族として扱われず、家格を下げられてしまいます。この仕打ちに憤慨した長男・権兵衛は、忠利の一周忌法要の席上で髻を切り、非礼を咎められ捕縛され、盗賊と同様に処刑されます。度重なる恥辱に耐えかねた次男・弥五兵衛をはじめとする阿部一族は、屋敷に立て籠もり、藩の討伐隊と激しい戦いを繰り広げ、一族は全滅します。

史実との相違

物語は史実を基にしていますが、鷗外はいくつかの点で脚色を加えています。例えば、史実では阿部弥一右衛門は忠利の死後すぐに殉死しており、忠利から殉死を禁じられたという事実は記録にはありません。この設定は、物語における悲劇性を高めるための鷗外の創作と考えられています。また、殉死は本来、新藩主が判断するものであり、死にゆく前の主君が殉死者を選ぶという設定も、鷗外による脚色です。

歴史研究者の吉村豊雄氏の研究によると、阿部権兵衛が代官職を罷免され知行を兄弟で分割されたというのも、史実では一時的なものであり、殉死との因果関係は薄いとされています。さらに、忠利に殉死した家臣の多くは新参者であり、藩の財政難によるリストラへの不満が、譜代の家臣による新参者への憎悪につながり、弥一右衛門らの殉死を招いたとする考察もあります。また、権兵衛が提出した目安（訴状）の内容が新藩主・光尚の政治を強く批判するものであったことも、討伐の原因の一つであったと考えられています。

作品の背景

『阿部一族』が発表された当時、明治天皇の崩御に殉死した乃木希典の是非をめぐる議論が社会的に注目されていました。鷗外は、この作品を通じて、殉死という行為に対する複雑な感情や、武士道の矛盾を問いかけようとしたと考えられます。また、鷗外自身がかつて上官との確執から辞職願を提出していた経験が、この作品を執筆するきっかけになったという指摘もあります。

作家の松本清張は、鷗外が『阿部茶事談』をほぼ逐条的に書き改めたものであり、鷗外自身の意見は静寂な情景描写以外にはほとんど見られないと指摘しています。この作品は、歴史的事実を基にしながらも、鷗外の文学的な解釈と筆致によって、人間の内面を描き出した作品として高く評価されています。

舞台化・映像化作品

『阿部一族』は、これまで様々な形で舞台化・映像化されてきました。

舞台
1964年：前進座による初演（脚本：津上忠）
映画
1938年：東宝・劇団前進座により映画化（監督：熊谷久虎）
テレビドラマ
1959年：ラジオ東京テレビ（現・TBSテレビ）で放送
1961年：日本テレビで放送
1995年：フジテレビで放送（監督：深作欣二）
漫画
2008年：佐藤宏之作画により漫画化

これらの映像化作品は、それぞれ異なる解釈や表現で、『阿部一族』の世界観を再現しています。

作品の意義

『阿部一族』は、武士道の美徳とされる忠義や殉死の裏に潜む人間の業や、権力の理不尽さを描いた作品です。鷗外は、歴史的事実を題材にしながら、現代にも通じる普遍的なテーマを問いかけ、読者に深い感動と考察を与えます。この作品は、日本の文学史において重要な位置を占めるだけでなく、現代社会における倫理観や道徳観を考える上でも、重要な示唆を与えてくれるでしょう。

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